2007-05-11

原罪

世界というのは、誰から見ても歪んでいる。
私は視力が良い。両目2.0である。その私が見ている世界と、近視や乱視がある人が見ている世界は、当然違う。眼鏡をかけたところで、かけているかいないか、という時点で違っている。
どちらが正しい間違っているではなく、どちらもその人にとっての真実なのだ。
誰かから見た世界は、他の誰かから見れば必ず、歪んでいる。
 
誰だって、自分が一番かわいい。自分に都合よくものごとを考える。
たまたま、利害が重なる何人かがいるとして。その人たちにとって”いいこと”は、別の人にとって”よくないこと”である場合が多い。
”いいこと”がある人が”よくないこと”がある人より圧倒的に多かろうと、ちからが強かろうと、それはどちらが正しい間違っているには関係が無い。いいかよくないかは、それぞれが判断する以外ないからだ。
 
社会は、それを一般化しようとする。全員にとって”いいこと”を模索する、という建前のもとに、ルールを決める。例外なく全員にとって”いいこと”など存在し得ない、という前提は忘れたフリをする。
そのルールをどうしても受け入れられない少数派や弱者を、社会は、仕方が無いから踏み潰す。
それは、いい悪い以前に厳然と存在する性質である。長いものに巻かれない人間は凍えて死ね、と言ってしまえる性質は、古今東西全ての社会に存在する。
社会が生み出したルールである以上、宗教やら思想やら道徳やらにも必ず含まれる。
キリスト教だろうがイスラム教だろうが仏教だろうが儒教だろうが日本的宗教観だろうが、自由主義だろうが民主主義だろうが共産主義だろうが、全てに含まれている。
人間は生きているだけで原罪がある、というのが、多くの宗教で前提となっているが。
その論法でいけばむしろ、考えを押し付け異者を排除しようとする社会や宗教のほうが、より罪深い。
 
いい加減、人任せや弱いものいじめはやめたらどうなのか。
自分にとって一番”いいこと”は、誰も知らない。教えてももらえない。自分が、他の人とは違う、歪んだ世界に生きている以上、答えは自分にしか見つけられないのだ。
どんなに素晴らしいことを言う人がいても、その人は自分ではない。盲目的に従えば、その人と自分の折り合わない部分に罪を抱える。
「原罪」は、それを正当化するための言葉であろう。
 
生きていることに罪は無い。
償いのために生まれてくる者などいない。
それでもある、という奴は、自分が抱えた自分で自分を許せない罪を、誰にでもあるということにして誤魔化そうとしているだけのことだ。

4 comments:

Anonymous said...

今日は時間がたっぷりありますので、プログの記事を順を追って遡れるところまで拝見させていただきますわ☆

で、早速ですが、いきなりのっけから三冶さんの面目発揮!ですね(笑)

見え方、捉え方が違うのは本当にそう!言葉ひとつとってみてもそうで、解釈って違いますものね。人それぞれ。

私も「人任せ」って信じられない。小さな子供ならいざ知らず、若い人ならまだ分るけれど、社会人にもなったいい「大人」が何物かに依存し頼りきり、自分の代わりに答えを出して考えて下さい、とばかりに「師」やら宗教に走ってみたりとか。。

とはいえ、私、別に宗教や「師」の存在を否定する訳では勿論ないし、それは個人の勝手で異存はないものの「妄信的、狂信的」に絶対視する人っていますでしょ?ビックリするくらいの。自分で判断することが出来ないほどの人が。その人の言っている事が全て!みたいな。。。

そして情けないことに、日本人は良くも悪くも主体性のない人が実に多いと思いますわ。

和の精神も行き過ぎると、本当、なあなあの事なかれ主義にもなるし、人の批判を恐れていて、自分の思うことも言えないようでは、とても「大人」といえないし、時には議論になっても言うべき事を言わないと、舐められばかにされますよね。

別に傍若無人になれ!とか、人に気を使うな!とか、揉めろ!(笑)とかいう意味ではなく。

「皆に愛されたい」「人気者になりたい」「いい人に思われたい」「嫌われたくない」ばかりが強すぎて、ただただ、人の顔色を伺い、相槌を打っていれば万事OKの「キジも鳴かずば撃たれまい」的精神では単に<都合のいい人>で終わりますものね。

それでもいい、というのであればもう何をかいわんやですけれども。。。

って、私のコメントものっけから長くなってしまいましたわね(汗)
という訳で、記事の内容とても面白かったです♪
     
    以上、今日2度目のマリアでした☆

三治 said...

んー。他者との関係上で事なかれ主義でも、別に構わないと思うんですけどね。私だってそうですから。というか事ばっかり起こしてたらあっという間に社会から抹殺されますから。

ただ、その場合に、自分とどうやって折り合いをつけるかだと思うんです。
みんな言ってるんだから、間違ってるに決まってる、いいことに決まってる、というわかりやすい全肯定全否定になってしまうのか。
自分のこと、自分の考えとして咀嚼して、自分のするいいことのよくない面、よくないことのやらざるを得ない面を把握するか。

本当に自分のこととして考えられない人は、人と自分が違うということも理解できないと思うんです。
みんな言うから、の「みんな」に、例外の要素はありませんから。
どこかに「みんな」にとって正しい生き方はあって、そこから外れた奴は間違ってる、になっちゃうわけです。
一神教の言う「神」がまさにそういう「正しいあり方」なんですが。日本ではそれが「世間並み」になるわけです。
自分にとっての「いいこと」は、絶対に他の誰かとは一致しないんですが、一致することにしてしまう。そして一致しない人を踏み潰してしまう。
そういうのはもうやめたらどうかなと。

別に人任せだっていいんです。自分で全部は考えられませんから。
ただ、その人に任せたのは自分ですから。その人のせいで蒙った迷惑であっても、それを招いたのは任せた自分、という覚悟が出来ているのかどうか。
「自分のこと」として考えないといけない、というのはそういうことだと思うんです。

Anonymous said...

こんばんは☆

マリアです☆

全ては「自己責任」ということですね。

「人任せ」にするのも、自分で判断し選んだ結果に他ならないですものね。その自覚があるかないかだけで。自覚のない人のほうが圧倒的に多い気がしますけれど。。

>覚悟ができているかどうか

その通りでまさに正論と思います。基本的に日本人て、その手の覚悟ができていない、リスクを考えないようなところが、用心深いわりにありません?殊、人間関係のことなると、人が良すぎるというか甘ちゃんというか、単に世間知らずなのか「自己責任」の重みがイマイチ分っていないような気がしてならないですわ。

三治 said...

うーん。
実は私、その「自己責任」って言葉、あんまり好きじゃないんですけどね。
上が負うべき責任を体よく下になする場合に使われすぎてて。
イラクの人質事件なんかもそうでしたけど。
そもそも責任って言葉がね。何か納得いかない。任は責められるものじゃないでしょう?
まして自己であれば、責任なんてありませんよ。任が無い。好きにすりゃいいんです。自分なんですから。
子としてから始まって、生徒として社会の一員として親として、だんだん「責任」って増えてくみたいに見えますけど。
その立場にいる理由は、なんなんだ、と。
結局自分が生きやすいように、ってことですよね?
責任は、あるとすれば属する組織側にあるんであって。個人の内性とは関係が無いと思うんです。

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