2007-08-13

下手の考え休むに似たり

さほど強くはないし、ネット上で変に書くと腕自慢の猛者が勝負を挑んできたりするので、あんまり書かないようにしているのだが。
私は、小学生の頃から囲碁を習っていた。今でも好きで、新聞の囲碁欄は欠かさず読むし、このブログとは違うハンドルでネット囲碁を打ったりもしている。
 
私の打ち方には、特徴がある。
全くに近いほど、考えないのである。感覚だけで、5秒ぐらいでポンポン打ってしまう。10秒考えたら大長考したような気分になる。
将棋やチェスが緻密な計算のゲームだとするなら、囲碁は感覚的なゲームである。陣地を多く取ることだけが目的で、そのためには犠牲を払うことも厭わない。そもそも王様がいないし、飛車角のような飛び道具もいない。一度置いたら動かない石があるだけである。
少し似たゲームにオセロがある。オセロもある程度までは感覚だけでも打てるが、盤が狭く、かつ打てる手が相手を挟める手に限定される分だけ選択肢が狭い。終盤は完全な計算のゲームになる。だから、私の力量も囲碁よりは少し劣るようである。
序盤は、いつでも優勢である。私と同じぐらいの棋力の人は、一般的に細部にこだわりすぎる。うんうん唸りながら3子ぐらいポンと抜いて得々としている。その隙に、どんどん大場へ先行し外勢を固める私は、中盤に差し掛かる頃には勝勢を手にしていることがほとんどだ。
だが、負ける。実によく負ける。いくら感覚的なゲームだからといって、まるで考えなければ結果は見えている。大抵相手の無謀な突撃を仕留めることが出来ず、逆に鉄壁だったはずの自石が取られてしまったりして、負ける。実に気持ちよく負けるのである。
何べん負けても、治らない。治そうとしない。
私が囲碁に求めているのは、論理のような人間くさいものに頼らず、感覚のみで打つことによる人知を超越した英知を得たかのようなカタルシスなのであって。下々の者共が群れ求めるような「勝敗」なんていう下世話なものではないのだ。
と、自分に必死に言い聞かせ。バクバク鳴る心臓と、脂汗が浮いてきた鼻を同時に抑えながら、耳まで真っ赤にして。こんな精一杯の負け惜しみを言うのである。
 

まあ、よく読んだと思うけどさあ。
強い人とやればそんなんじゃあ、取れないし勝てないよ。
せいぜい必死に考えればいいよ。
「下手の考え休むに似たり」ってね。

40目からの大石を頓死させ、見るも無残な大敗を喫しておきながら。いやむしろ、だからこそ。そんな憎まれ口を叩くのである。
 
囲碁から生まれて一般的なものになった言葉というのは、「下手な~~」以外にも意外なぐらい多い。
「傍目八目」や「一目置く」もそうだし、「大局観」や「駄目」なんかが元は囲碁用語、というと多くの人が目を丸くする。
もちろん、天皇や将軍、戦国武将などが親しみ、また名手と呼ばれた人も僧侶や学者など指導的立場にある人が多かったため、それらの人々に引用されるうちに定着していった、という面もあるのだろうが。
私は、その一番大きい要因はこのゲームがあまりに人生的なことにあるのではないか、という気がしている。
互いに四隅に地盤を固め。取ったり取られたりしながら、勝っても負けても全滅はしない。自分にも相手にも「分」があることを前提とした上で、より「分」を多く得る腕を競う。
相手に与える「分」を囮に自陣を増やしたり。逃げてばかりでは何も得られず、無茶な攻めにはしっぺ返しがあり、堅実すぎては大勢に遅れる。
すばしこい奴がいたり、鈍重なようで豪腕な奴がいたり、「ハメ手」と呼ばれる詐欺を使う奴がいたり、定石どおりにしか運べないマニュアル人間がいたり。打ち手の性格も如実に表れる。
それでいて、打つ者は皆相手との駆け引きよりも「どうすべきか」という自分への問い掛けを中心に思考を巡らせる。
1対1の勝負でありながら、どこかで相手との勝負だけでなく、盤上のどこかにある「神の手」を探しているような。そんな気分も味わえるゲームである。
 
さて。何も私は、囲碁の面白さを世に広め、競技の普及に貢献したい、などと考えているわけではない。
それは勿論愛好家が増えればそれに越したことはないが。その方面での私の力など、『ヒカルの碁』の足下にも及ばないだろう。
じゃあ何の話か。このブログが常にそうであるように、今回もまた私自身の話なのである。
先日来、公開されない「web拍手」のメッセージ欄に、熱心にコメントを下さる方がいる。
非常に論理的で読みやすい内容ですね、と。「文才ですね」とまで書いて下さる方もいらっしゃった。
お誉め下さるのは素直に嬉しいのだが。何遍も書いているとおり、私は誉められるのが何より苦手なのである。ああ、また罪のない人を騙してしまった、と。そんな気すらしてくるのである。
論理的?とんでもない。私は全く論理的な人間ではないのだ。当てずっぽうでパチパチと軽率な手を打ちまくり、とんでもないおっちょこちょいをして全部御破算、というのを繰り返して生きてきた人間なのだ。論理に打ちのめされ、泣き続けて来た人生なのである。
だからこそ、論理的思考への、自分に無いものへの憧憬は深くある。だから、文章という形では精一杯背伸びをして、論理的展開を必死で装おうとする。
世の中、文章ほど人を欺きやすいものはない。という気がする。文章ではさも立派そうなことを縷々書き綴っている「評論家先生」が、テレビに出てみたら化けの皮が剥がれてなんじゃこりゃ、というのが実に多いように。(テレビはテレビで、テレビ独特の詐術でうまく騙す人もいるが)
私の文章もまた。所詮は「下手の考え休むに似たり」である。何も言っていないじゃないか、と自分で言いたくなる記事がいくつもある。そんな記事に限ってコメントやなんかの評判は良かったりするのだから、何をかいわんや。
誉められて汗が出るのは、誤解をされたくないからである。うまく騙した、わが意を得たりとニヤニヤしている、などというふうに、論理の上手に穿った見方をされたくないのである。
下手なのだ。下手くそなのだ。休んでいるのと、変わらないのだ。記事を通じて訴えてきたことよりも圧倒的に痛切に、今私は自己の無能を訴えたいのである。
だってね。ほら、ちゃんと書いてあるでしょう。タイトルに。
『雑念の置場』って。
こんなものは、仏法の悟りに繋がる「正念」なんかとは対照的な、雑念の寄せ集めなんですよ。
 
じゃあ何で書くんだ。なんでわざわざ公開するんだ。と言われたなら。
下手の考え休むに似たり、のままではいたくないからだ。
上手な文章を書きたい。常にそう思っている。
そのためには、休んでいるのと変わらなくとも、亀が綱渡りしているような鈍々遅々とした歩みであっても。進まなくてはならないではないか。
どうせ書くなら、公開して晒し者にして、たまに恥でも味わったほうが少しでも速く進めるのではないか、と。それだけのことなのだ。
誉めて欲しいのでも、多くの人に読ませたいのでも、ない。私はそんな献身的な人間ではない。
自分の中でもごもご蠢いているものを、なんとかしてこねてこねて形にして。へんな形になっちゃったなあ、とか思いながら。
そっと目に付く場所においてみたら、みんなどんな反応をするかしら。
じっと粘土細工の前に座り、自分でそのへんな粘土を下手だなあと眺めながら。人が通りがかって「変なものがあるね」と行き過ぎるのを眺めている。
私にとってのこのブログは、そんな場所なのである。

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