2007-10-19

事故分析

徒歩で信号を渡る時、あなたは青信号と赤信号どちらが危ないと思うだろうか。
そんなの赤に決まってるじゃん、と思ってしまう人は、気をつけたほうがいい。一番事故に遭いやすいタイプだし、車でも事故を起こしやすいタイプだ。
考えてみよう。直線道路の交差点。まずまず見通しもいいとする。
赤信号の時は、横断歩道を横切る車は当然ながら直進車のみ、こちらからも向こうからもお互いが良く見える状況にある。
赤信号ということは、もし無理にでも渡ろうと思うなら、車にぶつかろうとする自殺志願者は別として、よくよく車の来ない事を確認しながら渡ることになる。万が一危険なタイミングであっても、走って避けるなり車側で避けてくれるなりするだろう。
判断力が未熟な子供や衰えた老人でもなければ、また渡る隙もないような交通量の多い交差点でもなければ、赤信号を渡って事故に遭う可能性は非常に低いはずだ。
逆に。青信号。直進車は来ないから、多くの人は左右もろくに見ず黙々と渡る。特に日本人は、前より下を見て歩く人が多いと言われている。
だが。直進車がいないというだけで、青信号だって横断歩道を横切る車はいる。右折車や左折車である。
信号のタイミングがギリギリに近かったり。対向車線の交通量が多くてなかなか右折のタイミングが無かったり。単に焦っていたり。そういう、車側で十分な安全確認をしない状況が生まれやすいのが右折・左折時である。
そういう危険な車がたまに横切ろうとする中で、歩行者もぼんやり渡っていたら。ドスン、だ。
結論。赤信号を渡るより青信号を渡るほうが、実は危険なのである。
 
10月19日。14年前のこの日。それは、当時高校3年生の私が、生まれて初めて交通事故に遭った日である。
青信号を自転車で渡ろうとして、右折してきたおばちゃんにガスンとやられたのである。まさに、前記の通り。青信号の危険を全く考えていなかった事故だった。
結構な勢いでぶつかられたから、ショックは大きかった。一度ボンネットに乗っかって吹っ飛ばされた着地点は、急ブレーキで止まったおばちゃんの車から3mほど離れていたし、カゴに乗せていた教科書が詰まったカバンはさらに5mほど離れた生垣にぶら下がっていた。怪我こそ突き指と擦り傷で済んだものの、しばらく恐怖感が消えなかった。
その後の取調べが、まあ、長かった。突き指でも一応は人身事故である。ほんの微かにだけ血痕のついた私の着地点には、あのサスペンスドラマでよく見る、白いチョークで描かれた人の形の絵が残った。これはしばらく「あれ、オレ」と自慢に使えた。
パトカーの中で長々と状況を聞かれるうち、大した被害が無くいい加減暇を持て余した私の脳ミソは右往左往し始めた。上に書いた、赤信号と青信号どっちが危ない?というようなことを考え始めたのである。
そして、一つの結論を見た。
赤信号か。青信号か。それはただの状況だ。
渡っていいか。悪いか。それはただの法律だ。
「青信号は安全」という単なる状況の一部を、状況の全てでもあるかのように取り違えていた。
法的拘束があろうとなかろうと、一部は一部なのだ。大部分であっても全部ではないのだ。
それに縛られ、気付かず少数の危険に盲目になってしまった、それが原因だったのだ。 
今、渡れる状況なのか、安全か安全でないか。そのために見なければならないもの。信号というのは、そのうちの一部でしかない。なのに、ただの状況の一部のみで判断をした、言い換えれば、信号に判断を委ね他に目を向けることを怠ったから、私は事故に遭ったのである。
赤信号みんなで渡れば怖くない、という、一時期流行った言葉があった。
あれも本質は、信号だけを信用して渡ってしまうのと変わり無い。
周りの「みんな」に判断を委ね、自分は何も考えていないからだ。
歩行者から見て赤なのだから、直進車から見れば青。もし運転者が「青だから歩行者なんか来るはずが無い」ってな調子で、よそ見でもしていたら。怖くないどころの話ではない。大惨劇は避けられぬ。
みんなが渡っていようといまいと、赤でも怖くなく渡れるときはある。そして、逆もまた。
横で縮こまってすみませんすみませんばかり言っているおばちゃんを鬱陶しく思いながら、私が得た結論は、そういうことだった。
 
何も信号の話に限らない。
周りをよく見ていれば誰にだってわかるようなことで、人は騙され蹴躓き続けている。
そして、見ていなかった自分を棚に上げ、「委ねた相手のせい」、「自分でない誰かのせい」にしようとしている。
そんなこともわからないような人が、何だかうじゃうじゃいる気がするのだ。
それは、やはり私のように、いっぺん事故にでも遭わない限りわからないことなのだろうか。

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