友人について
友人て、どこからだよ。と考えてみる。
例えば、「俺小野伸二と友達なんだよ」と言ったら。それはやはり嘘なのか。
勿論彼には会ったことがない。室蘭で一度彼のプレーを観戦したのが、一番近付いた経験だ。サッカー以外の彼についても何も知らない。況や、彼は私の事など知るはずもない。
だが。それでも彼は友達のような気がする。もし会えば必ず話掛けるだろうし、尊敬していることを伝えるだろう。悩みを相談されたなら、かなり親身に考えると思う。これは友人とは言わないのか?
例えば。私の学生時代の友人。普段全く連絡をとっていない。だが、街でばったり会えばやはり昔と変わらず親しげに会話し、ふざけあう。そしてやはりその後も特に連絡はしない。これは友人とは言わないのか?
結婚届のような手続きがあるわけではない。どこからなのか線は引けない。
よく、「何でも話せる友達」などと言うが、そんなものはありえない。人は必ず何かしら自分だけのものを秘めているものだし、まして家族でもないなら尚更。
見せたい、見せられる自分だけで生きているものである。ソトヅラというものは、何層にも折り重なっていて、相手によってどこまで見せるかが違うだけだ。
核だと思っているところの何層も内側に本当の核はある。
お互いに嫌い合う友人関係、という不思議な関係も、世の中にはままある。友人は、必ずしも好意が必要なわけでもないようだ。
他にも、利害関係があったり、家族や会社があったり。繋がり方は実に様々だ。
人は一人では生きていけない。言い古された言葉だ。だが事実である。
日本国憲法の定める「健康で文化的な最低限の生活を送る権利」を行使しようと思えば、どうしたって自分以外の人間の力が必要である。
結局何が言いたいのかと。人類皆友達だと思えばいいじゃんってことさ。
2 comments:
思っていた通り、いえ、それ以上に真剣にお返事頂けて嬉しかったです。
僕も友達に関しては失敗の連続で、友達っぽくなるのは簡単なのですが、継続というか、経営の部分で崩壊四散の繰り返しです。唯一本当の友達と思うのは4年に一回ぐらいしか会わない中学時代に仲良くなった木俣くんだけです。
友達になって、なんて書いたのはご挨拶代わりのイタズラみたなもので、僕も三治さんとほとんどそっくりにそう思っています。ただ小野伸二が相談に来たら親身になって応えるだろう。なんて所までは想像したことがなかったです。
でもそうか…
僕は子供の時から底抜けに陽気な横山ノックさんの大ファンだったのです。でもあの大問題があって知事を辞職して2、3年か経った頃に近所の神社で御花見をしている時、たまたま隣の席が芸人さん達の席で、そこ現れたノックさんに出会った事があったのです。実際のノックさんはメディアで見るのとは違い、驚くほどに体格の小さな人でした。言葉に出来ないほど苦しい時だったろうに、その小さなノックさんは周りのみんなに、にこにこずっと笑っていて、席のみんなを笑わせて……
僕はその場に入って行って手を取って抱きしめて「世界の中が敵になっても僕はノックさんが好きだ」と言いたくなりましたが、そんな事が出来る性質ではないので、ただ、ちらちらと盗み見をしているだけ。でもそのうちノックさんと目が合ってしまったのです。すると急に涙が溢れてきて…
そこに来てから30分ほどでノックさんは席を立ちました。そして僕達の席の横を通った時「待ってますよ」と、それだけを小さな声で言いました。聞こえなかったのかノックさんはそのまま行きすぎて、でも、10mほど歩いた所で振り返ると、僕に目を合わせてにっこりと笑ってくれたのです。
三治さんの言う通り、友達ってそんなものなんだと思うと、あの時どうしてもっとしっかり声を掛けなかったのかという後悔が少し楽になります。
……でも人って死んじゃうんですね。
40も中半を過ぎると、伝えたい事は早く言わなきゃって何だか焦りはじめます。
お名前間違えたのはブログ拍手のコメントです。
>きたざきさん
こちらこそ、ありがとうございます。
友達って、照れくさいもんですよね。
改めて面と向かって言うようなもんじゃ、ないですよね。
片想いに少し近いと思います。
web拍手の、確認しました。あの誤字はよくある(というかよくわざとやられる)ので、気にしてませんよw
それより、昨日の私の致命的な間違いと、web拍手の半放置状態、本当にすみませんでした。
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