2006-05-22

自分のこと、ひとのこと

現代社会は、人が折り重なって繋がり、形作られている。
何をするでも、そこには途方もない数の人々が関わっている。
例えば、ハンバーガーを食べるとしよう。使われている材料は。小麦粉。イースト。胡麻。牛肉。玉ねぎ。トマト。塩。胡椒。ピクルス。包装紙だってある。
それだけで終わらない。小麦を作るには畑をおこす農機具も、灌漑用水も、肥料も必要だ。農機具を作る人がいて、その部品を作る人がいて、その部品用に鉱物を精製する人がいて、精製機を作る人がいて。また・・・
気が遠くなる。今自分がしている仕事が、どこかで巡り巡ってこのハンバーガーに欠かせない役割をしている。そんな気すらする。
多くの人は、そこまで考えない。当たり前だ。人は自分を中心に物事を考えるようにできている。でなければ自分が死んでしまう。

だが。
少々周りのことに無関心になりすぎたのではないか。あまりに社会が煩雑化したため、自分を支えているものが何なのかが見えにくい。そのため、自己中心的な発想に寄り過ぎたのではないか。

家族、という社会単位がある。もっと社会が単純だった頃も、今も。変わらずに最も自分に身近な他者である。支えあって生きていることを考えやすい存在である。
それすら、希薄になりつつある。
核家族化により単位そのものが縮小した上、互いに無関心な家族が増えている。

具体的に。
「父」は、働いている。仕事上のたくさんの人々との付き合いがある。それは、あくまで利害のある付き合いだ。相手のことより、自分、自社の利益を優先しなければならない。組織に属するならば、常に組織全体を考えなければならない。
「母」は、家庭を切り盛りしている。近所付き合いがあり、毎日の生活のための買い物をしなければならない。役所へ行ったり保険を気にしたり。表面上の付き合いをこなさなくてはならない。さらに、働く女性も増えている。
「子」は、学校へ通う。親にこうしろ、こうあれと言われたことと必ずしも一致しない理屈を押し付ける教師がいて、進学のこと、就職のこと、個性がどうしたやりたいことは何だのと考えることを強制する。さらに、友人がいて部活がありいじめがあったり。単純ではない社会をもっている。

自分のことで精一杯なのだ。面倒くさすぎるのだ。
最小だったはずの社会単位すら怪しくなるほど、人類社会は追い詰められている。

もう一つの問題。
繋がりが多いということは、それだけ無駄がある、ということである。
給食を残した。バイト先で余った食材を捨てた。誰にでも経験があるだろう。
そういう無駄が、繋がりの各段階全てに存在するのだ。
これもまた気が遠くなる。
無駄にエンジンをふかして燃料を消費する、コピーミスで印刷をやり直し、失敗は捨てる。冷蔵庫の中で食べ物が腐る。暑くもないのに冷房が入っている。
全て、無駄である。
さらに大きな視野で見てみる。石油燃料が無駄になるとどうなるか。紙の資源である木材を伐採し続けるとどうなるか。冷蔵庫で腐った牛肉を作るのにどれだけの耕地面積が必要で、そのためにどれだけの森林が失われるのか。発電エネルギーに原子力を使い過ぎればどうなるのか。
しわ寄せは、全て地球環境に来るのだ。
石油資源の枯渇、森林減少による砂漠化、公害問題、異常気象、地球温暖化。
全ては、人間の無駄遣いによるものだ。
結果として、地球は人間にとって必要ないもので溢れた星になろうとしている。

地球のために、なぞとおこがましい事を言う奴がいる。
地球にとっては痛くも痒くもない。人間にとって必要のないものでも、必ず必要とする生物が現れる。50億年の時間をかけて生命を育んできたこの星を侮ってはいけない。
困るのは、人間だけなのだ。

動物愛護団体は動物しか見ない。森林環境団体は林業者の都合だらけだ。
環境保護を叫びながら、全体を見ていない。問題の根がどこにあるか考えない。
そうしてやはり、きっと彼らも活動に熱心すぎて家族が崩壊しているのである。

足元を見よう。それから少し目線を上げよう。相手のことを考えてみよう。
全てはそれが出来なくなったことが問題なのだ。

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