野球少年の心
もちろん、どんなスポーツにも言えることなのであろうが。野球を本気でやったことがある人々は、皆特別な思いを持っている。
それは、とても孤独なチームスポーツである。
だからこそ。たとえグラウンドに立っているのが自分でなくとも、切ない思いにかられてどうしようもなくなることがある。
野球ほど、責任の所在が明確な団体球技は、他にないのではないだろうか。
打者は一人で打席に立ち。守備は捕球から送球・ベースカバーからポジションカバー、中継プレーに至るまで、全て各個人の責任が折り重なっている。
負けた原因が、簡単に見つかるのだ。
しかも、やっている側にすれば、エラーと凡退の山を築いても勝つときは勝つし、ホームランを打とうが20個三振を奪おうが負けるときは負ける。
チームの一人一人が、自分の役割を果たし、それがうまく重なりあってはじめて勝利があるゲーム。そして、ヒーローと戦犯が明確にわかるゲーム。
それが、野球だ。
私は、軟式の少年団野球しか経験がない。しかも、補欠とスタメンを行ったり来たりするレベルだった。試合で活躍した経験も数えるほどしかない。
そんな私でも、昨日一昨日のようないいゲームを見れば、あのときの熱い想いが滾ってくる。
打席に立った時の緊張感。空を切ったバットの重さ。快音を響かせた時の手応え。打球が来た時の体が自然に動く感覚。手につかず握り直したボールの感触。
あの日。あの時の、熱い想い。
他のスポーツも経験した私だが、最初の感動とはやはり種類が少し違う。
忘れられない試合が、一つある。
6年生の途中で転校が決まった私は、その少年団での最後の試合もベンチで声を嗄らす以外に出来ることがなかった。
市の大会の4回戦。私達のチームでは快挙と呼べる進撃を続けていた。
しかし、相手は市の強豪。最終回裏を迎え、2点リードされていた。
2死。走者なし。万事休す。
ここで、監督は私に代打を命じた。
すぐに意味を察した私は、監督の目を不安げに見つめた。
思いっきり振ってこい。監督のその言葉を、私は忘れない。
そして、ボテボテのピッチャーゴロを転がして。思い切り走って走って、走っても走っても遠くて遠くて遠かったあのファーストベースを。私は忘れない。
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