幸福論、幸運論
幸せになりたい。よく聞く台詞だ。
だが実は、幸せになりたい、と思った時点で、もう無理である。
現状に満足できない、今よりもっと、と思うとキリがない。
常に常に。不満な毎日が続くだけ。それは、不幸だ。
では。幸せになるには。どうするか。
幸せだなぁ、とつぶやいてみる。
それだけだ。
幸福とは、今の自分を認めること。自分の内面にしか無いものなのだ。
それを、他者との比較だの、世間の評価だの。
外のものに基準を求めては、いつまでたっても幸せにはなれない。
運がある人。ない人。よく聞く話だが。
そんなもの、あるわけがない。
サイコロを1000回も振れば目の出る確率に差はなくなる。それは、誰がやっても変わらない。
偶然を運と呼ぶから、話がこじれるのだ。
それでも、運のいい悪いを感じ、自分はツイてるツイてないを思い込んでしまうのは。その正体は何か。
気の持ちよう。これだ。
たとえば。福引きを引いて、残念賞のティッシュが出たとする。
それは、結果だ。不運ではない。単に偶然の結果に過ぎない。
不運だと感じるのは、その人の感情だけだ。
自分は運があると思う人は、ティッシュをもらえて幸運と思うか。鼻水が止まらなかったことを思い出すか。駅のトイレに紙が無くても困らないと思うか。そもそも気にもしないか。
そんなものだ。
丁半バクチで食っていくわけでもなければ、運不運など気の持ちようでしかないのである。
人は物事を主観でしか見ることができない。
であれば、主観のほうを転換してやればいい。
客観的現実は変わらなくとも、主観的現実はいくらでも都合がいいように塗り替えることができるのだ。
No comments:
Post a Comment