価値に換えられるもの
昨日の夜。ぼんやりテレビを眺めていると、電子マネーの特集をやっていた。
クレジットカードやキャッシュカードからネットバンキングへ、そしてEddyへと進化してきた電子情報上の仮想取引。
何だかうすら寒いものを感じるのは私だけなんだろうか。
言うまでもないが、取引というのは人間社会にしかないものである。
動物は互いに食べ物を交換したりはしない。
親が子に与えるだとか、群れで共同で狩りをしたりだとか、別の種同士が共生していたりはあるが。
人間のように、自分が余っているものを他の足りないものと取り換える、というのはない。
最初は物々交換から始まり、互いに共通する価値を持つ金銭を通じる形態に変わっても、媒介するのはモノのままだった。
電子マネーは、違う。
名目上は電子情報という媒介は存在するが、情報は情報だ。書き込み読み取るのは人間のアタマである。
情報である以上、改竄される危険もつきまとう。
アタマの中だけに存在する価値。それは価値と呼べるのだろうか。
アタマの中にしかない価値というのは、実は昔からあった。
貸し借りの関係である。
証文をとったところで、今目の前に何もないところに価値が存在すると仮定していることに変わりはない。
それは、確かに人間社会を発展させた。
若い者は、自分が将来生み出す価値を前倒しで受け取ることで、大きな事業に挑むことが出来た。
同じ元手を得てから始めようとすれば、どうしたって寿命が足りなくなるハズだったのだ。
だが、そうして得た仮想価値の積み重ねは、どこかから得なければならなかったものだ。
その歪みが貧富の差を拡大させ、奪われ続けた途上国がどうなったかを考えてみれば、正のエネルギーだけでなかったことがわかる。
どうしても生理的に受け付けないものが、私の感覚には残る。
インタビューを受けたおサイフ携帯愛用の女性は、「将来サイフは無くなる」と得意気だったが。
私はそんな日が来ないことを切に願ってしまう。
自分が汗水たらした対価は、私は手に握れるものでもらい続けたいのである。
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