2006-12-13

命の重み

多分3・4年前のことだ。
働いていたスーパーの休憩室に、一枚のパンフレットと募金箱が置かれていた。
「~~ちゃんを救って!」
5歳ぐらいの少女の写真と、手術を受けねば生きられない彼女の病状、日本では手術が出来ず、渡米して手術を受けるため何億だか必要で、募金を、と。
既に50名ぐらいの職員の名が署名されていた。
パンフレットを読むうち、うまく言えぬ不快感に覆われた。
傍にいた仲の良かったパートさんに、何気なく言われた。
「三治さんも、できるだけ協力してあげて。」
「いや、僕こういうの嫌いなんですよね。」
言下に断った。乱暴にすらなった。
今自分の頭にあるものをすぐ論理立てて説明できぬのが私の頭の悪い所だ。
そのパートさんは困った顔で、そう、と言ったきり黙った。
今よりずっと狷介だった私と仲良くしてくれるぐらいのパートさんだから事なきを得たが。相手が相手だったら私は袋叩きに遭ったかもしれない。
それぐらい、圧倒的に抗いを許さないような空気も感じ、それにも反発していた。

今なら、その時の思いを多少説明できる。
一番不快な違和感を感じたのは、その写真だ。
鼻に酸素吸入管を挿し込み、ぼんやりカメラを向いた少女。
まず間違いなく、誰もが同情を抱く。誰もが生きて欲しい、できることがあるなら、と思うだろう。
で、彼女はこうして自分の姿が晒され、同情を買い、金を乞うために使われることを望んだのか?
金を乞うているのは間違いなく、彼女では無いのに。彼女は、自分の治療にいくらかかるか知る筈はない。
知っていても、判断出来ない。そんな歳ではないのだ。
じゃあ誰が。親だ。一番生きて欲しいと願っている親だ。金の必要をわかっている親だ。
しかしそこには、親の写真はおろか、名前も、コメントすらも何も載っていなかった。

もし私が難病を抱えた子の親なら。募金でもしないとどうにもならぬとしたら。
それでも、決して子供の写真をダシに使ったりはしない。
自分はいい。土下座でも何でもする。ボロ雑巾のように叩かれ罵られても、子供のためなら、構わぬ。
治療代を払ってやれないのは、私だ。子供ではないのだ。
私の負わせた十字架ならば、私が軽くしてやることも出来るだろう。
何十万何百万の人々の十字架を背負わせるような真似は、絶対にできない。

一人の少女のかわいそうな姿は、他の何よりも説得力を持つ。
保険所で屠殺を待つだけの犬猫には引き取り手が現れなくても、写真を公開して「もらって下さい」と書けば飼い手が現れるのと同じ構造だ。
そうして1匹救ったことで、人は全ての不幸な犬猫を救った気分になる。
実際は何千匹もの犬猫が毎日屠殺されていくように、難病で命を落とす子供も少なくないはずだ。
そのうちの一体何人が、同じ手術を受けられるのだろう。何億もかかるというその手術を。
たった1円のワクチンが足りなくて毎日子供が亡くなっています、というポスターにも、必ず子供達の写真が添えられている。
その子供達と、この国の一人の少女と、何が違うのか。

私は、その少女を殺したかったわけではない。生きてくれればと思う。
ただ何億も金をかき集めようという行動に、賛成しかねたのだ。
少女の写真を盾に訴える、「この子を見殺しにするのか?」その行動だ。
何故、日本で治療できないことを批判しないのだろう。
何故、手術負担を減らそうという署名をしないのだろう。
募金をするなら、何故同じように難病を抱え海外で手術せねばならぬ子供に資金を供出する、基金のようなものを作らないのだろう。
子を持つ親なら、同じように病で倒れる全ての子を救いたい、と願わぬはずはない。
そこで、子供をダシに儲けている集団がいるだろうことに想いが至った。

パンフレットはピカピカの上質紙に印刷されていた。レイアウトも端麗で、素人仕事とは思えなかった。
少女の住まいから遠く離れたこの北の果てまで、恐らく労組あたりを通じ回ってきたこの文書は、果たしていくらかかっているんだろうか?
両親他有志程度の資金力なら、手作り文書でも相当な負担のはずだ。
回収の目処が立つからこその、投資ではないのか?という疑いを持ったのだ。
募金での手術は、募金した者以外にリスクが無い。
医者は正規の料金を要求するだろうし、あちらでの滞在だって割安にはなるまい。
臓器売買?まさか。そこまではないだろうが、手術先の病院に便宜を図る代金ぐらいのことはありそうだ。
募金が使われる過程で、儲かる人間がいる。それだけは、間違いない事実だ。

その時考えたのはそこまでだった。嫌悪感はしばらく残った。

その後も同種の募金は続いていたらしい。
それを知ったのは、今年の10月だったか。NHKの現役職員が身分を隠してテレ朝の番組で募金を訴え、2ちゃんねるで軽く祭りになっていた。
(参考:さくらちゃんを救う会 検証
 http://www18.atwiki.jp/sinusinu/
詳細なことは調べていない。大雑把に眺めるだけでも、大体は把握できた。
トリオジャパンという団体が関わっていること。
この団体は、誰かが手術を受けるなり亡くなるなりして募金の必要がなくなる度に、次々に一人ずつ募金対象を用意していること。
そして、募金の期間がかぶったことは、一度としてないこと。
これだけあれば、私が募金しない理由としては十分だ。彼らを裁くのは私ではないし、募金するかしないかは各自が判断すればいい。
手術を受けて元気になった子もいることと、手術を受けなければ元気にならなかったかも知れないことは、否定できないし、するつもりもない。

私は、書いてきた通りこの種の募金に違和感を禁じ得ない。私財をもって協力することも無いだろう。
だが、それ以上の違和感を、この問題に「死ぬ死ぬ詐欺」とキャッチフレーズをつけ、楽しげに煽っているねらーの反応に感じた。
すぐここに書こうかと思ったのだが、しばらく考えていたのだ。

まず、私とは論点が違う。
募金の使途の不明瞭さや、募金頼みで普通より裕福な暮らしを送る両親を取り上げ、募金という名の詐欺ではないか、という論調ばかりだった。
命を金ではかっている、という面しか見えてこないのだ。
手術後の、子供達の人生に思いを巡らす者はいないらしかった。
私が問題にしたいのは、そこなのだ。
同じく難病を抱えた誰よりも優先的に、多くの人の「善意」で手術を受け、生かされている、という意識。
その十字架は、あまりに重い。子供達のなかで、自らの命よりも重いものになりはしないか、とすら思ってしまうのだ。

この国では、盲目的なまでに「命は大事」と説く。
どんな命でも軽く扱ってはいけない、と教える。
でありながら、生と死について、特に死について、まともに議論が交わされることはない。
ドラマや映画の中での死は、甘美ですらある。バッサリ斬られたり、一撃で撃たれたり、または病の床で眠るように。
ニュースの中の死も、現実感が無い。今際の際のさまを伝えたりはしない。周辺の事実だけを淡々と伝える。御冥福を祈る言葉に、真実味はない。
ゲームの中では、さらに現実感がない。敵キャラだけでなく自キャラの命すら取り替えられるものでしかない。
バラエティでは「死ね」と簡単に連呼する芸人が人気を博し、PTAはそれにふざけるなと抗議する。
なのに、死についてまともに語ろうとはしないのだ。
一方でシロアリやゴキブリを殺す薬をCMで垂れ流すTV局が、一方で鹿やアライグマを殺すなと当たり前のように語る。
どうかしてるんじゃないか、と思うのは私だけだろうか。

私が高校生の頃、完全自殺マニュアルという本が出版された。
そこには重大なテーマが含まれている、と思った。
自殺は、善なのか悪なのか。
今当たり前になっている自殺絶対否定論は、日本のものではない。
戦後、アメリカに押しつけられたものだ。
サムライ社会では切腹は潔いものであり、斬られたり恥を晒して生きるぐらいなら腹を切るべし、が美徳だったのだ。
大戦中の日の丸特攻隊やひめゆり部隊のような集団自決まで、その伝統は脈々と続いていた。
三島由紀夫の割腹だって、醜い悪業と語られることは少ない。
命の重みは、自殺を前提におくことである面高められる、とすら考えられていたのだ。
じゃあ、どうやったら死ねるのか。もし死にたかったらどうすればいいか。どんな苦しみを味わい、どんな死体を晒すのか。
完全自殺マニュアルは、詳細に記述した。そして、議論のスタートに立とうとした。と思う。
死んだっていいじゃん、こうすれば死ねるよ。ところで、死にたいの?そういう問い掛けと私は読んだ。
語られていないのだ。語らなければならないことなのだ。うやむやではすまないのだ。
死は、誰にも平等に訪れる。逃げても無駄なら、悪戯に命は大事、と逃げ続けるのも無駄だし卑怯なのだ。

命は大事、とだけ言い聞かされ、なぜ大事なのかは誰もまともな答えを持たない。
死を語るのはタブーであり、死は誰にでもやってくることすら曖昧に誤魔化される。
矛盾だらけの言説で固められた「命は大事」に、いったいどれだけ意味があると言うのだろう。
幼いこの子を救って、と言われれば盲目的に募金するのは当たり前で、反論すら許されない。
たくさんの同情と哀れみで生かされ続けるその後の少女の命は、語られない。
募金の使途や両親のリスクの少なさ、組織の儲けばかりあげつらい、募金しなければ手術ができない、死ぬかもしれないことには目を塞ぐ。カネ。カネ。カネ。
この国ではいったいいつから、命はカネより軽くなったんだろうか。

ふと繋がったのは、いじめ自殺だ。
いじめは、日本の文化だと私は言った。
いつでもどこでも、異者排除を原則として日本の社会は動いている。
いじめ自殺だってあったろう。ニュースになっていないだけ、と思っていたのだが。
思い落としに気が付いたのだ。
自ら命を絶った彼らは、自分の命にどれだけの重みを感じていたのだろう。
とうせんぼをされたから自殺した、なんて嘘みたいな話もあった。
問題は行動や集団の意志ではなく、個人の人格形成にのみ、自分の命の重みの認識にのみあったとしたら。
教師にはわかるまい。親だって普通に考えるだけでは気付きようがない。
もし仮説が正しければ、これは確かに今までの日本の歴史にはなかったものだ。

この国は、とんでもない方向に向かい始めているのではなかろうか。
教育基本法より先に、生と死について語るべきではないのか。

矛盾の一例。
先日、麻原彰光の死刑判決が確定した。
多くの人は、当然だ、という反応だった。
無差別テロは、いかなる理由によろうと大罪だ。
宮崎勤のような他の死刑案件に対しても、特段議論は起こらない。
犯罪者の命は、大事ではないのか。
説明の理由として、被害者感情などと言われたりする。
殺されたから、障害で二度と立てなくなったから、殺してやりたい。
その感情は、理不尽に攻撃を受けたから貿易センタービルに旅客機で突っ込んだ、という感情と何が違うと言うのか。
説明の理由として、犯罪の抑止力ということが言われたりする。
宅間守のような、自分の死を前提として無差別殺人を図るものにとって、抑止力はあったのか。
むしろ、犯罪を助長するようなものだったのではないか。
死刑囚の中には、残された僅かな時間をより良く生きたい、と願うものが少なくないそうだ。
木村修治という誘拐殺人犯が残した手記は、出版され広く読まれている。
逆に、無期懲役の囚人は、自己の罪の意識も将来の希望もなく、ただのんべんだらりと過ごすものが多いという。
一体どちらが、重い罰なのか。

死刑は、誰かに何かを与えるのか。
死刑に反対したいのではない。罰には理由が必要だ、と言いたいのだ。
殺されるのが一番強い罰、は正しいのか。
彼らの犯した罪は、彼らの命より重いのか。
 
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