時は平等に、惜しみなく奪う
気付いたら、もう8日ではないか。
ついこないだ仕事納めをしたと思ったら、明日からまた仕事だ。
休みにならぬ休みだったとはいえ、あまりに早い。
時間は、あっという間に私の休暇を奪っていった。
時間というものは、ただひたすらに奪うという性質を持っている。
時間が何かを与える、ということは、無い。
与えたかに見えるものは、個々の変化であって、時間は関係が無い。
例えば、時間によって成長しているように見える草花を、成長させたのは水であり、光であり、酸素であり、土中・空中の栄養であり、何よりも、生きよう、成長しよう、という草花のDNAに刻み込まれた「意志」である。
成長のための手管を、全てのものから惜しみなく奪っていく時間との戦いの中で、取り残されれば、枯れる。
時間に勝ちえたものは、未だ存在しない。
全ての命は、最後は時間に奪われる。
タイムマシンを本気で開発している人がいるらしい。
だが、どう考えても過去に戻れぬことは間違いない。
戻れたなら、既に未来からやってきた誰かが、このクソみたいな現状を、根因から絶っているはずだ。
奪われた時は還ってこないし、未来に行く、とは、ただ時に奪われる速度を早めるだけだ。
たとえ100年を3分で通り過ぎ、180年生きたとしても、3分間に大事なものはあらかた奪われている。
奪われるものだ、という前提をもって。
さて、どうして戦うか。
生きもの達が見つけた答えは、子を残すことだった。
塩基配列を頼りに。その連鎖は40億年に渡り続いてきたのだ。
有性繁殖がその確度をさらに上げた。異なる遺伝子同士を結び付けることで、様々な遺伝構造を持つ子を残し、相互淘汰により進化させたのだ。
よりよい子を残すこと、残し続けること。子に生きる道を指し示せるよう生きること。
それが、生きるということなのではないか。
子を残さないのも自由、という考え方は、時間に全て奪われても構わぬ、という意思表示に他ならない。
残せない者を蔑視してはならない、残したくないという考え方を認めよう、という人権問題と、混同してはならぬ。
子育てが面倒臭いから、金が無いから、という程度のことで、許されてはならないことなのだ。
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