2017-01-06

正しい自分

この世には、普遍的な正義や倫理など存在しない。
大学で、思想史を専攻していた私が、どうやらたどり着いた真実らしきものは、これだった。

原罪、という概念がある。
人は人として生きてきただけで罪を抱えている、という考え方だ。
キリスト教、仏教、イスラム、ユダヤ、だいたいの宗教で共通してある考え方だ。
罪の対義として、神がある、という発想のほうが、順序として近いのかもしれない。

自己を省みることを突き詰めた結果、自己の裏返しとして、創始者と呼ばれる人々が生み出した、偶像。
神とか正義とかは、そういうものだろう。

人はおのおの、違っていて当たり前のものである。
男であれ女であれ、肩書が何であれ、肌や髪や目が何色であれ、同じグループと分けられた中でも、それぞれが全然違っているものである。
であれば、その裏返しもまた、人それぞれ。
神や正義も、それぞれがそれぞれに省み突き詰めない限りは、誰かのお仕着せでないものを見つけない限りは、辿り着けないものなのではないか。

ブログを復活させてみようか、という気になった当初、私が書きたい、吐き出したい、と思ったのは、幾度もこのブログで書き連ねたような気がする、この話だった。
歳を重ね、様々な社会、という名の人のカタマリ、それらに接する数が増えるほどに、自己を省みない人の傲慢に翻弄されるほどに、思いを強くしてきたのだ。

私は、正しく強くありたい。
それは、社会が認めようが認めまいが、社会が畏れようが侮ろうが、そうしたことはどうでもよくて、
ただ、私の思う私として、正しく、強くありたい。
いつもそう思っていて、ちっとも強くない、怠け者で弱虫で逃げてばかりいる私なのだが、思いとしてはそう思っている。
自分として、正しく強く生きる。我が子にその姿を、結局正しくなれないであろうことは半ばわかっているが、それでもそうしようと思ってはいた、そう伝えたい、私はそのために生まれてきて、あとは子どもに受け継ごう、そんなことを思っている。

しかし。
悲しいことに、そんな私は珍しい変わり者らしい。

平気で見え透いた嘘をつき、取り繕い、やりたくないことはごまかしつつ、人から見て恥ずかしくないように、それだけ、そうしないと自分を支えられない。
自己を省みることから逃げ回って、省みればどうなるか、気付いているから逃げ回って。
そういう人が、私の回りには多すぎる。

さらに困ったことに、正しい私はそういう人を見捨ててはいけないような気がしてしまうのである。
うんざりして、クソ野郎ども、居なくなってしまえ、と思う自分は、正しくない気がしてしまうのである。
さらにさらに困ったことに、正しくないことに目を瞑り、自分にとって都合のいいように、そういう人を利用しよう、だとか、そんな芸当も私には到底できそうにないのである。

やるべき仕事は、常に山のようにある。それはこの数年、何も変わらない。
その現状はわかっていながら、まずはその仕事をする自分の根の部分の悲鳴に耐えられず、とりあえず書いて整理がしたかった。

あと、明けましておめでとうございます。

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