2006-06-09

背景の美学

美術の授業が嫌いだった。
絵を描くこと自体は、嫌いではなかった。中学に入ると最初にやる、手のひらのデッサン。学年の代表として、少なくとも2年後までは下級生の見本に使われていた。
だが。構図がうまく作れないのである。
美しい絵は、前景と背景がうまくバランスをもって調和している。
前景だけでは物寂しい。背景だけ、というのはあり得ない。前景があるから背景に押しやられるものがあるのだ。
その加減が、できない。
自分で悲しくなるぐらい、のっぺり平板な絵しか描けないのだ。

どうやら私は、前景より背景のほうを気にする人間のようだ。

映画を観ていて、背景に秘められた監督の遊びを最初に発見してクスクス笑うのは、いつだって私だ。
花束を買おうとして、カスミソウが足りない気がして、増やせ増やせと花屋に命じた挙句、彼女にがっかりされたこともあった。
寝癖を直しているうちに、鏡に映ったペン立てがぐさぐさになっているのが気になって直す、なんてのはほぼ毎日のことである。

だが、何かに没頭している時。それとはまるで逆の状態になる。

小さい頃。テレビを見ている私に話し掛けるのは、無駄だった。今でも、サッカーや好きなお笑い番組を見ている時は同じ状態になって、よく怒られる。

昨年、パソコンで締切り間際の資料を作成している最中に、会社の真ん前の道路で玉突き事故が起きた。相当な台数のパトカーや救急車が来て大騒ぎだったらしい。らしい、としか言えない。全く気付かなかったから。

結局、私は極めて私的な人間なのだろう。
常に、大多数が見ているものとは違う部分に焦点がいっているのだ。しかも、あちこち焦点が動き回る上に、気になりだしたらきりがないという悪癖つきで。

たちわるいな。生きにくいわけだ。

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