2006-06-20

言葉の壁、詩の力

何も異言語間でなくとも、言葉の壁というものは存在する。

人間のコミュニケーションというものは、言語のみによって行われるものではない。
表情や身振り手振り等のわかりやすい表現手法だけでなく、何気ない癖や姿勢、息遣いや心拍の鼓動すら、意識無意識を問わず、互いに感じあいながら、意志の伝達を行っているのだ。
そのなかで、「言語」なんてのは、互いに共通のものという前提で、思考を記号化し、伝達の道具としたもの。それだけに過ぎない。
当然ながら、真意をそれだけで伝えるなどは、普通なら出来る相談でない。
そこには、いつも誤解の種が潜んでいる。実は、言語は決して「互いに共通のもの」とはなりきれないものなのだ。
たとえどんな簡単なことばのみを用いたところで、そのことばの受け入れ方、理解の仕方には必ず個人の経験が作用する。

例えば。大阪の人に「あほ」と言うのと、東京の人に「あほ」というのでは、受け入れ方が違う。言語論理的には、内包される概念に差は無い。だが、「感情の違い」というものが厳然と存在する。
例えば。小さな子供に「太ってるね」と言ってみる。意外なぐらいに怒る子供は少ない。彼らには「太ってる」に対して怒る理由が無いからだ。子供にとっての「太ってる」は、むしろ褒め言葉になる場合だってある。
同じことを年頃の女性に言ったなら。結果は言わずもがな。
こうしたことは、何も特定の言葉にだけ存在するものではなく、全ての言葉の端々に含まれているものなのだ。
そして、言葉は常に、話し手のものではなく受け手のもの、相手に与えるものである。話し手から離れた途端、言葉は受け手の中にしか存在しないものになる。
「太ってる」と言われて、怒るか怒らないかは受け手の勝手なのである。

唯一の例外。それは、詩だ。うたである。
よいうたには、話し手の魂が乗る。想いがこもる。
うたのことばは、想いを乗せたものとしてある種の普遍性を持ち、時には1000年の時すら超えて、受け手の心へと響くのだ。
よい音楽。よい絵画。よい芝居。
うたに限らず、高められた想いを乗せたもの。それが芸術というものである。


よいうたがかきたい。
だが。一番大事なひとにすら、私のうたは届かない。

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