2006-12-04

言葉の重み

母方の祖父が大好きだった。
5歳ぐらいの頃の私と、祖父は何でも本気で勝負してくれた。
相撲をとっては投げ飛ばされ、碁を打てば全滅させられ。その度に泣いて悔しがったが、祖父は決して手を抜いてはくれなかった。
唯一まともに勝負になったすごろくで勝った時の喜びようは、未だに母にからかわれる。
祖父の指先は、曲がっていた。背中には幾筋もみみず腫れのような傷があった。
どうしたの?と聞いてもニコリと笑って何も言わなかった。
私が小学4年の時にその祖父が死んで。それからようやく、母が教えてくれた。
その傷は、マルキシストだった祖父が戦時中に拷問を受けた時のものだった。
爪と指の間に畳針を打ち込まれ、鞭で殴打され、ただ国のやり方に反対をしたというだけで職を奪われ人格すら奪われた時のものだったのだ。

今の私は、共産主義思想の虚構性について論じられる程度の知識は得たと思っている。
もし祖父が生きていたなら、そんな話もできたのにな、とたまに思う。
多分あの祖父のことだから、手抜きせずに喧喧諤諤捲し立てられ、勝負にならずに言い負かされるかもしれない。
それでもきっと私は、祖父を恨んだり憎んだりはしないだろう。嫌ったりすらしないだろう。
考えが違ったからと言って、どんな拷問にも負けず信念を貫き通し、私をやさしく抱いてくれたこの祖父を、私は尊敬している。
悪いことをしたな、と思うたびに頭を掠めるのは、父でも母でも他の誰でもなく、この祖父の顔だ。

それがどんな理由であれ、真剣に考えたことを発言する機会すら奪うのは、悪だ。
議論は答えを探すためにするものだ。何かの意見があれば賛否両論あるのは当たり前なのだ。
反意がなければ、最善の道は選べない。
反意を潰しに潰した太平洋戦争が、どんな結果に終わったか。それを如実に表している。
人は神ではない。間違いだらけで生きているものだ。
誰もがいいと言うことなんて、間違ってるに決まってる。
反論ならばいくらでも聞く。私も反論を返すだろうが、だからと言って私は相手の人格を否定したりはしない。

死んでくれ?よくそんなこと言えるよね。
もしそれで俺が死んだら、キミは責任取れるのかい?
反論なら聞くけど、ただ泣き喚いてくるような子供の相手はしないよ。
俺はキミのおじいちゃんじゃないんでね。

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