2007-02-13

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る

文学論が、というか芸術を論じるということが、好きではない。
最終的には、書いてあるじゃねーか、としか言うことが無くなるからだ。
特に、人物像と作品を繋げようとしたりされると、げんなりする。
だから何だ、と。作者の人生には興味が無いんだよ。
遺した作品の中にこめられた想いが、普段そばにいた人の言う「実像」を超えていないなら、そもそも作品としてダメなんだよ。
ところがどっこい、世の中ではそんなことをやる牛太郎が「先生、先生」と崇め奉られる。
詠み人の弱い部分を暴き散らし、斜め上から見下してみせ、ひいては世の尊敬を、ってな馬鹿が、だ。
私にはそれが、許せないのである。

表題の歌は、石川啄木の作である。私の好きな歌だ。
初めてこの歌を読んだのは、大学の教科書でだった。
心うたれている私を、邪魔する奴がいた。
啄木は、官僚としてはロクに仕事もせず借銭を踏み倒しまくり遊郭に通い詰めるような人間だったらしい。
そうした私生活をしたり顔で暴き散らし、そんな奴が真面目に働いたようなこと書きやがって、困ったもんだね、なんぞと蔑む自称「文学者」が、大学の教授ですと踏ん反り返っていたのだ。
それがどうした?と。バカじゃねーのか?と。今よりずっと生意気だった私は思った。
書いてあるじゃねーか、と。
はたらけど、はたらけど、こんなことは真面目に働ける人間の口からは出てこない。
真面目に働ける人というのは、自分の仕事にやりがいを持って打ち込める人というのは、そんな状況なら「働きが足りないんだな、もっと頑張るぞ」とか思うものなのだ。
片手間でイヤイヤやっている、いや、やらされているに近い面倒くさい仕事だから「はたらけど」になるのだ。
やりたくもないことを生活(くらし)とかいう実感の無いもののためにやらされ、それでいて暮らしは良くならず。
この手は、これをやりたいのかと。何か握っているのかと。
ぢつと手を見る、のだ。
ああ、本当に。何しにきているかわからんこんなところで、私は何をしているんだろうか、と。啄木の寂寞と無聊が、痛いぐらい伝わってきた。
思わず手を見たところに、例の解説である。

今なら、世の中そんなもんだ、と諦めたろうが。
今よりずっと生意気だった私は、その講義の翌週までのレポートに「歌も読めないなら辞めちまえ」とだけ書いて、無記名で提出した。
若気の至りは数え切れない私だが、これは今でも反省していない。

2 comments:

Anonymous said...

いいはなしです。とてもおもしろかったです

三治 said...

おっとー、こんなところにコメントがあったんですね。。。すみません。気付いてません。

あんまりほめないで下さい。しかも、匿名で誉められるととっても自演ぽいので・・・(汗

いや、失礼なことを言いましたが。
こんな失礼なやつなので、どうか今後二度とほめないで下さい。

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