春の小川

北海道の春の小川は、決してサラサラとは行かない。むしろどうどうと音を立てて流れ下る。
冬の間に降り積もった雪が、一気の気温上昇で解け出し川へ流れ込むからだ。
小川というのは、むしろ夏場は水が無くなる枯沢に現れる。本来の小川は、もはや小川と呼ぶべきではないほど荒れ狂っているのだ。
　
今日は日曜出勤だった。これからの時期はどうしても休日出勤が多くなる。
仕事は、昼前に終わった。久々のいい天気。一度帰ってしまえば、もう二度とまた出ようとは思わなくなるのは必至だ。
せっかくいい天気なのだ。桜でも見に行きたくなるではないか。
　
もちろん、街場の桜は既にほぼ散りきっている。先週の日曜の段階で既にピークは過ぎていた。
しかし。桜は何も、街にだけ咲くものではない。
特に北海道で一番多く、気象庁桜開花予報の対象として全国で唯一ソメイヨシノ以外で選ばれているエゾヤマザクラは、その名の通り山に咲くのが本物なのだ。
　
自分の身近な桜が散ってしまった。もう一度桜の花が見たい。
そんな時、方法は二つある。
ひとつは、開花前線を追っかけ北へ向かうことだ。
しかし。桜の開花前線は、１週間経てば３００ｋｍ以上も北上してしまう。よほど桜がどうしても見たい、という場合以外は、気楽にできる範囲のことではない。
何も、そんなことをしなくても見る方法はある。二つのうちもうひとつ。
山へ登れば良いのである。

一般に、標高が１００ｍ高くなると気温は０．６℃下がると言われている。
３００ｍちょっと登れば、約２℃ほど気温が下がるわけだ。
２℃。実はこれが、この時期の北海道での一日平均気温が、１週間で上がる温度と同じなのだ。
桜だけでなく、植物は皆一日の平均気温が活動の区切りを作る。
３００ｍ山へ登れば、そこの植物たちはちょうど下界での１週間前と同じぐらいの活動状況になっているわけだ。

しかし。この時期に山を登るのは、たとえ車であってもそれなりに勇気がいる。
その要因の第一は、山菜採りだ。
カーブだらけの狭い２車線道路で、カーブのピークに平気で路駐している馬鹿がいたりする。山菜を採りに来たがる年代の人間というのは、駐車に限らず運転マナーが皆無の傾向がある。
第二は、バイクが異常に多いのだ。
ワインディングが延々と続く道路がいくらでもある北海道の山道は、５月ごろから４輪より２輪のほうが多いぐらいになる。
しかも本州から来た奴らはまるで道も知らない癖に無茶な飛ばし方をする。そこに山菜取りの車が停まっていたりするんだから、いくら自分が安全運転を心掛けていても危険は勝手にやってくる。
私の自家用車は軽なので、こういう時だけは非常に都合がよい。トロくて当たり前ぐらいに勝手に向こうで思ってくれるし、車体が小さいからかわしようもいくらでもある。
今日もかなり交通量は多かったが。何とか無事帰ってくることができた。

これは、日本一の桜である。
今日は、５月２０日。
そもそも、こんな時期に満開の桜の木というのは、北海道でもごく限られた地域にしかない。
清流の上に覆いかぶさるように毎年咲くこの桜は、今日全国で見られる桜のなかでは一番美しいだろう、と、いうわけだ。
場所は、教えない。教えたら絶対に人が溢れるような場所にあるのだ。
私だけの、とは言わないが。自力で見つけてしまうような気合の入った人以外の人間が大勢来ると、たいていの自然物には何だか作りものかと思わせるようなベールがかかってしまう。
そもそも、とんでもない山道を毎年歩いて何とか辿りついているのだ。バレてしまったら柵ができたりして、近寄ると怒られたりしそうだ。
だから、教えない。

山ではまだちょっと早いが、この新緑の時期の北海道というのは、本当に美しい。
まだ雪の残る遠景の山々と。抜けるように青い空と。真上から降り注ぐ陽光と。ほころんだばかりの緑と。僅かに彩りを添える花々と。
何でもない昼下がりの帰り道すら、途中で溜息が出るような景色がいくらでもある。
食べ物だって、蟹もウニもアスパラもこの時期が一番の旬だ。季節の山菜もサクラマスもある。
夏がいい、冬がいい、それは内地との落差で善し悪しを言っているだけだろう。
一番美しいのは、５月の終わりの新緑の季節なのである。