2007-05-30

自殺嫌い

私は、自殺が大嫌いである。
自殺した奴になんか、お悔やみすら言う必要は無いと思っている。
自分で自分を殺すような奴は、生きていたってろくなことは出来なかったろう。私には、そんな奴の死を悔やむ理由が無い。
幸い、身近に自殺者が出たことは無いが。どんなに愛すべき人間でも、自殺したものには手を合わせないと私は決めている。
葬式ぐらいは行くだろうが、一番後ろにつっ立ってバカタレがとかなんとかぶつぶつ呟いているつもりである。
自殺は、誰も幸せにしない。誰も得をしない。
死人に口無しと言うが、死んでみたらわかったこと、というのも世の中多い。むしろ嘘をつかない分だけ、死人の周囲からのほうが確実な情報が得られたりするものだ。
あえて探せば、保険金で借金解消なら多少得をしたように見えるかもしれないが。
そもそも金なんぞが人生の幸福に与える影響はごくごく少ない、と思っている私には、別次元の話だ。
 
長らく、この国では自殺は美徳の一種だった。
切腹覚悟の正義感というのは至上のもので、それに纏わる美談は数え切れないほどあるだろう。
今も昔も、この国では「縄目の恥辱」が最大の罰である。法廷での有罪無罪も量刑の多少も問わず、とにかく逮捕されたら悪なのだ。
全くの冤罪であったとしても、たいていの場合は、関係無い。後ろ指差されながら、日陰を選んで生きていかなければならなくなる。
それで、裁きを受けるぐらいなら死んでお詫び、とばかりに腹を切る者が現れる。また、腹を切れば、許される。先述の「美談」の印象を持つ人々には、潔さを認めてもらえるからだ。
この身をもって潔白を証明します、なんてよくわからない理屈を振り回して死んだ者もかなりの数いる。
本来、潔白なら尚更腹を切る必要など無いし、生きて疑いを晴らす努力を続けてもよさそうなものなのだが。
いい方に考えれば、「縄目の恥辱」を濯ぐのが難しいことを思い詰めるのだろうか。
悪いほうに考えれば、罪が全て暴かれるのを恐れた虚飾、とも取れるのだが。
そうした身より名をとるサムライの発想は、現代にも色濃く残っている。
そして、罪より罰を重んじる日本的道徳の根幹もまた、そんなに変わっていない。
 
松岡利勝とかいう馬鹿が、犯した罪が何であったか。そのうち明らかになるだろうが。
首を吊ったことや遺書の内容で、騙されてはいけない。
よく考えてみてもらいたい。死んだからって、どんなお詫びになるというんだ?
生きていてこそのお詫びであり償いである。死んでみせたって、人が一人社会から消えたというだけだ。何一つプラスになる要素は無い。
片棒担いだ奴への追求を逸らす為か。家族に振りかかる負債から逃げる為か。または、純粋に縄目の恥辱を避けるためか。
いずれにせよ、この自殺にお詫びの気持ちなんか無い。単なる利得行為であり、処世術の一種でしかない。
 
死人に鞭打つのをためらう、というのは、失ったものをくよくよしないことと根で繋がっている、日本人の美しい感性だと思うが。
こういう利得自殺を図る人間を、大臣として任命したものの責任と。国政に参加させたわれわれ国民の責任は、それとは別問題である。

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