2007-07-27

みなとのまつり


どんなに小さな港町でも、夏のお祭りは盛大にとり行われるものらしい。
海というのは、とてつもなく、人の思うままにはならない所である。
昨日までと同じ場所には魚はいないし、突如高波にのまれることだってある。
どんなに荒くれた海の男にとっても、まつり、いのるのは、極めて自然なことだった。
神のみちからにすがるより、他に方法はなかったのである。
 
現代に生きる我々は、祈ってもどうにもならないことを知っている、と思って生きてしまいがちになるが。
なに、土壇場になれば、我を忘れて手を合わせていたりするものだ。
自分が誰に祈っているのかも、わからないままに。
どんなに進化し発展したつもりでいても、人間の考えや思想・文化なんて、そんなもんである。
日常を超えた現象には、頭だけではついていけない。
 
日常に組み込まれ、祈りを忘れた祭りにも。宵が近づくにつれ、人々を巻き込む幻想の時が訪れる。
ざぶん、ざぶんと寄せては返す波音の中で、昼から飲み通しでいい加減茹りきった面々も、不意に神妙な面持ちになっていたりする。
やがて日が暮れ、花火が上がる。

3 comments:

きたざき said...

いいですね光景と心で見る風景。
三治さんのそこにあるものを見つめる目はやはり確かなものなのだと思います。

頂いたコメントについて、三治さんの意見は良く解るのですが
それについて僕は正しく反論することができません。
(たぶん交点に乏しい、程度の低い論争になると…)
そこで少し論点はずれると思いますが
僕なりに自分が書いているものの説明を少しばかりしたいと思いました。
(これとてやはり程度の低い行為ですが…)

先ず、この世には人間の言葉をしゃべるタヌキもキツネも昆虫も
神様も悪魔も妖怪も幽霊も龍もいやしません。

誰か僕以外の人の心の中には居るかも知れませんが、僕の心には居ないのです。
だけど僕はそんなありもしない何ものかが好きで好きでたまらない。
それが存在してくれなければ、本当に生きては行けないのです。

無くてはならないものが無いのですから、自分で作るしかないのです。

僕の幽霊や妖怪や話すタヌキも神様も他の誰かの心にある本物とは違う、紛い物です。
でも作ったからにはそれが自分以外の少しでも多くの人に認められ、愛されなければ
結局、不在の孤独からは逃れようがありません。

たぶん僕の描く神や悪魔の神格が俗物なのは、僕自身が誰かの愛情を乞いたいときの
ただびとつ表現手段が「人間的な弱さを見せる」という、それだけだからでしょう。

僕の物語の登場人物は誰も彼もその立場に関わりなく
誰かに愛されたいと、道化るのに必死です。
それはとりもなおさず、それこそがどうにも逃れられない自分自身の写し絵に過ぎませんが
それこそが文学なのだと思うのです。

神の言葉を借りて自分の世界を作り上げようとする新興宗教の教祖の様な人物とは
対極の方法で僕は孤独ではない自分の王国を作りたいのでしょう。

しかしこの歳になると「対極」という位置が一週回って表面だけの違う
同質のものだという事も知っています。
それが物語になっているのですから本質的なうさん臭さはあるのだと思います。

それを感じ取った上で三治さんは批判的なのだろうと思うのですが
現在頂いている批評の方向は空を切っています。
文学など好き嫌いだけで語ればいい、下らないものだと思っているのじゃないですか。
評論家は自分自身を清らかな高い位置に置いて世界を見渡しますが
世界の僅かな断片を見下しただけでも一瞬にして転落する、そんな存在です。

それでも権威を得ていないものなど文学とは認めないとおっしゃるなら
いいです、絶交です。

三治 said...

>きたざきさん

コメントありがとうございます。
ただ、個人連絡先をページに置いていない私も悪いんですが。きたざきさんのブログに書いたコメントの返事をここに、っていうの。出来ればご遠慮頂きたいんですが。
嫌いなんです。それ。
私以外の人にはわからないでしょう?
記事は記事、私は私ですから。

コメントの返事は返事として。
以前私は、こんな記事を書いたことがあります。
「偉そうなことを言う」とよく言われますが、本当に自分の思うことを思うままに言えば、誰が何を言っても偉そうに聞こえるものなのだと思います。
どう受け止められるかを、あまり考えていないので。
お気に召さなければ、どうぞご自由に。

三治 said...

ああ、こんな記事も書いたことあったなぁ。
文学なんて、なんてことは私は死んでも言わないでしょうね。

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