2016-12-20

復活の序章

ずいぶん長いこと、放置していた。実に6年と9ヶ月である。
放置している間にコメントを下さった方(誰かはだいたい察していますが)、ありがとうございます。
おかげさまで、相変わらず元気でやっています。

放置している間に、ネットをとりまく環境も随分と様変わりした。
TwitterやFacebook、Lineの普及で、SNSでの実名ネット環境がすっかり主流になった。
iモード携帯しか持っていなかった2000年当時、オープンチャットでネットの世界に入った私からすると、隔世の感がある。

時代の流れに取り残されたように、このブログはひっそりと置いてあるままにしていた。
置いてあるままに、なんて言い方をするといかにも意味ありげだが、なんのことはない、ただ単に、パスワードを完全に忘れきっていたのだ。
いじりたくても、消したくても、消し方もわからなくなっていた。

もう一つ、それどころではなかった、というのが正直なところである。
このブログを始めたのが、10年と7ヶ月前、とクレジットされている。
まだギリギリ20代の頃、ということになる。
30代前半まで、まだ余力が十二分にあった時期には、余力のままに書き散らしていればよかった。
30半ばを過ぎ、社会に求められる役割は雪だるま式に増え、余力どころか逃げて回復する必要すら生じていた中で、書いている余裕はなかった。

それでも、ずっと気にはなっていた。
私らしい私は、ここに残してある。
そんな思いが、このブログにはずっとあったのだ。
書けなくなっていたものの、たまに覗いては読み返したりしていた。

肉体的にも、この間には手術やら入院やら長期の経過観察やら、いろいろあった。
ひとつひとつは命に関わるようなものではないが、時間は着々と私の「残り時間」を奪い続けている。そんな意識も強くなってきた。


大河ドラマを観ていたのである。「真田丸」。

一般には、権力に抗う、判官贔屓な日本人好みのヒーローとして、言ってしまえば「わかりやすく」扱われてきた真田源次郎信繁(幸村)について、三谷幸喜は独自の視点で、人間としての彼、わかりにくく揺れ動く部分まで含めて描ききった。快作であった。

作中、源次郎は、誰かに憧憬を抱くたびに、その当人に言われるのである。
「俺のようにはなるな」

迷い、戸惑い、躓き、いち生活人として小さくまとまりつつあった九度山での隠遁生活中、思いもかけず「なりたかった自分」になる契機を得た彼は、最初から全てを失う覚悟、前提で、「なりたい自分」を全うする道に身を投じ、最後まで戦ったのである。

私は、今の自分のままでいいのか。
そんなことを、ドラマが最終回を迎えた後で、考えさせられた。


私の、なりたかった自分。
世間にごろごろ転がされ、削られ擦り減った中でも、失わないように小さく丸まって守りきってきた、根っこの部分。

それでも、何とか耐えてきた。
まだ失っていないようなのである。
10年と3ヶ月前、同じようなことを書いていた、その気持ちはまだ私に残っているようなのだ。


6年と9ヶ月前、同じようなこと書いてそれっきり放置した前科のある私ではある。
果たして今回どうするつもりなのか、つもりのとおりに動くつもりがあるのかどうか、自分でもよくわからない。

ただ、当時と今で、決定的に違う気持ちがひとつある。
残り時間は、無限ではない。

自分に正直であることを、失わないために。
少しずつ、ぽつぽつ書いておくつもりである。

No comments:

↑ このブログがお楽しみ頂けたら押して下さい。ただの「拍手」です。