2006-07-15

評論家面

よく言われる。非常によく言われる。評論家みてえな面しやがって、何様のつもりだよ、とこうくるわけである。
いや、特に返す言葉はない。私は何かにつけ受け取ったものについて考える癖がついている。そして、それをたまに人にも言う。それについてどうこう言われても、そうですか。としか言えない。

ただ。そもそもそういう言葉を発する人は、評論、評論家というものについて、何か過大な評価をしているのでは?と思う。
テレビのニュースショー。コメンテイター。大学教授だったり弁護士だったり作家であったり。所謂『肩書き』は立派だ、とされる人々。そういう人にしか許されないものだと思っていないだろうか?
更に。そういう人は、決して専門分野についてのみ発言を求められるわけではない。作家に文章のことしか聞かない番組なんて見たことが無い。
で、あれば。評論家って何さ?と問いたい。自分のしてきた経験を基にしたりしなかったりしながら、何かについて発言する。それなら、肩書きなんて必要なさそうである。
何より不快なのは。肩書きは立派かもしらんが、当て推量やいい加減な知識で、適当なことをしたり顔で発言するぼんくらである。
そこには、自分の発言に対する責任感など微塵もない。ただ、肩書きに甘えて言いたいことを言っているだけだ。酒場の親父の戯言と何ら変わらない中身を、お得意の美辞麗句で飾り付けただけである。

評論という仕事の価値は、翻訳に近いものがあると思っている。
余人に伝わりにくい本質を捉え、自己というフィルターを通じてよりわかりやすい形で届ける。大変なことだ。
この時重要なのは、決して肩書きではないし、経験の多寡でもない。
きちんと受けとめること。自分なりに受けとめることである。
借り物の言葉や自分に都合のいい解釈なら、子供でもできる。そんなもんはないほうがいいぐらいだ。
そうして、評論は決して原典を超えない。どんなに自分にとってつまらないものでも、それを大事にする人の想いを否定は出来ない。
人の親兄弟をどうこう言うことは出来ても、その人の親兄弟を想う気持ちを否定は出来るものではない。

身を削り、抉りだしたもののみを述べ。だからと言って決定的な影響は原典に譲る。評論とはそういうものだ。
だから、何様のつもりだよ、と言われても、困る。
何様もなにも、他のなにものでもない。三治様だよ。

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