ロックの神様
昨日、テレビで『アマデウス』を観た。多分4回目ぐらい、そして10年ぶりぐらいだ。
交響曲はほとんど聴かない。ロックを聴きなれた私には、音があちらこちら多すぎて煩いのだ。
それでも、この映画と、モーツァルトの音楽は、別だ。
彼こそ、世界最初のロックンローラーであろう。
劇中でストリーテラーとなったサリエリより、他の誰より、自分の才能に怯えていたのは、彼だ。
『職業』としての束縛と、束縛の象徴としての父と、それにあまりに容易に応えられるが故の倦怠感と。
自己に内在するものを余す所なく表現しようと、すればするほど乖離していく世間の評価と。
逃げの対象としての酒や薬と。通俗的な嫁と。そこにしか逃げ場がない自分への嫌悪と。
自分を認め、受け入れてくれるものは、自分の生み出す音楽の中にしかなかった。
その孤独は、その懊悩は。我々の知り得るものではないのかもしれない。
ロックには。否、芸術、と言い換えてもいいのかもしれない。
そこには、神などいない。
極めて凡庸な才能しかない、サリエリでさえ気付いた。
自分の中に潜む、決して縛られ得ぬもの。
がんじがらめの自分の奥底で蠢いている、しかし美しいもの。
それは、神には作れない。
ロックとは、長らく神や権力に奪われていた「人間」を、取り戻すためのものなのだ。
神様が つくったものは
いつか壊れてしまうものばっかり
ロッケンロール
関係ねえ
(ザ・クロマニヨンズ『夢のロッケンロール・ドリーム』)
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