誉め殺し
いつかの総選挙でなにがしとかいう党派の選挙戦略をマスコミが報じて以来、誤解があるようだが。
「誉め殺し」というのは、誉め言葉を用いて嫌味たっぷりに貶すこと、では、ない。
あからさまに貶して、怒らせては意味が無い。怒りというのは、危機感の現れである。警戒させては、殺せない。
シノギの一手段とされてきた「誉め殺し」というのは、文字通り誉めるのだ。
他意なく、例外なく、ただひたすら誉めて誉め倒す。
そうすると、人は徐々に警戒心を無くしていく。無くした所へガバリと襲い掛かり、根こそぎカッパぐ。
それが、本来の「誉め殺し」だ。
客引きが「シャッチョサンシャッチョサン」と呼び込むのも、営業マンが「奥さんお美しい」と囁くのも、ウラがあるからこそ、なのだ。
ウラがあるかないかはさておき。
誉める時・誉められた時は、そういう影響があることを忘れてはならない。
特に。弁を発し世に問う人間は、誉め言葉は毒、ぐらいに考えておかなければならない。
テレビの中でセンセーセンセーと称される人々ほどロクなことを言わないのは、まさにこの毒ゆえである。
誉めたところで、今ある以上のものは出てこない。
誉められた事について顧みて考える、ということは、無いのだ。
まさにその通り!と言われては、そうでしょう?とか相鎚打つぐらいしかない。
そこに、発展は無いのだ。
対して。批判は薬である。
的の当不当問わず、批判に対しては考える。
あれ?間違ったかな。変だったかなぁ、と考える。
自分の意見、相手の批判、双方を読み比べる。
意図が伝わったのか。伝わっていないなら、言い直さなければならない。
伝わっているなら、誤りを含むのはどちらなのか。考えるだろう。
考えるから、進めるのだ。
また、問う側からすれば、批判をすれば相手のおさとが知れる。
突如バッカジャナイノ?と叫び出し、そんなこともわからないの?と人格否定に走ったり。
すり替えやら、はぐらかしやら、誤魔化しやらで逃れようとしたり。
そんなことをする奴は、自分だけが大事、その程度の器ということだ。
それ以上進歩は無い。聞くだけ無駄、である。
だからさ。このブログのファンとか言って誉められてるだけじゃあ、困るわけですよ。
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