2007-05-02

人間って何だっけ?

何かで行き詰ると、もともといらんことを考えがちな私の脳ミソはもやもやといろんなことを考え始める。
その行き着く先は、たいてい決まっている。何しに生きてるんだっけ、という、そこだ。
これはかれこれ20年以上は変わっていない。眠れない夜に、いつかしんじゃうんだ、しんだらどうなるんだろう、いやだこわいこわい、と泣き出した、10歳ぐらいの子供の頃から変わらない。
誰も答えを持っていない、考えても仕方ないことだ、という結論を既に10年は前に得ているのに、それでも変わらない。死ぬまでわからないから、死ぬまで考えるのかもしれない。明日死ぬか50年後に死ぬかもわからないが。
 
そこに、何の根拠も無く「悟り」という結論を示してみせるのが、宗教である。
信じてしまえば、根拠など必要ない。むしろその「悟り」を根拠として現実社会を説明するから、その前段は考えの外になるのだ。
「神」がいてそれが全てを生じさせ司るとして。その「神」が何故、どうやって生まれたかを説明することはできない。「神」は「全て」を生んだんだから「神」自身も「神」が生んだんだろう。そこでオシマイだ。
私には、それでは救いにならない。信じられないからだ。単に「神」の問題だけでなく、彼らの美徳すら信じられないからだ。
彼らは、欲を否定する。欲が全ての過ちの始まりだと言い、断食したり性交しなかったりすることが美徳とされる。
私にはそれが、自分が人間という生き物であることを否定しているようにしか見えない。
食べたい。飲みたい。子供を作り残したい。そういう欲望は、無かったら種としての自分が滅びるものだ。
それが強すぎれば確かに諍いの芽となるだろうが。社会性のためと言って欲望を全否定して逃げるのは自己否定ではないのか。
この世と別の、「あの世」というファンタジーの世界に生きていたいなら勝手にすればいい。私は夢想の世界では生きられない。
 
昨年の新書で一番売れたらしい「国家の品格」を、お偉いさんからあんまり薦められるのでついこの間読んだのだが。これもその類の発想から生まれたものだった。
ダメなものはダメというガンコ親父の論法を正当化するために、あれやこれや必死である。
アメリカ的論理的思考を批判したいらしいのだが。引用される「論理」はどうみても屁理屈ばかり、それを否定しても「論理」の否定にはならないことは数学者の著者自身が一番良くわかっているはずなのに。
自分が教えられてきて、正しいと信じている「武士道精神」に名を借りた「日本的思想」、その正しさは論証なんかできない、信じるものは救われる、と言わんばかりなのだから、これは宗教本とするべきである。
信じることから出発されても、困るのだ。自分の肌身で感じられないことは、私には信じられない。
 
そうした考えの真逆をいってみると、結構痛快な結論が出る。最近の私の行き着く先は、そこに決まっている。
基準は全て、自分に置く。自分以外の神だの世間だのは意に介さぬ。自分が面白いか面白くないかだけで全てを判断し、面白いことだけやろう、という発想である。
ベンサムやミルは「快楽主義」とかいう名前でそれを一般化し社会規範にしようとしたが。私はそんな面倒くさいことはしないし、できるとも思っていない。人間はみんな、違うからだ。そもそも自分が面白ければいいのだから、自分が面白いことが他人と共通する必要は全く無い。
と言っても、決して利己主義ではない。私は他人に不快な思いをさせたり、不利益を与えたりするのが面白くないからだ。人が泣くのは面白くない。人の笑顔は面白い。
うまいものを食うのは面白い。大好きな人と一緒にいるのは面白い。食いすぎると腹が痛くて面白くない。好きでもない人といても面白くない。意外と貪婪にも陥らない。
その感覚の根源がどこにあるか。それは、人間として生き物としての欲望にあると私は考えている。
感じ、欲している。その感覚に忠実に従ってりゃあ、生き物としてそれでいいんじゃないか、という発想である。
人間の社会はどんどん複雑になって、人間のすることできることも増えている。餌を探すか寝転がってポリポリ蚤をとるかぐらいしかない動物とはまるで違う、ように見えてしまう。
でも、生まれてメシ食って子供作って、子供が困らないような生き方を示して、死ぬ。それは、何にも違わない。
答えは結局自分の中にしか有り得ないんじゃないのか、と思うのだ。
 
一番面白くなさそうで、でも避けられない「死」。それだって結構面白いのかもしれない気がする。
信じないと地獄に堕ちるぞ、なんて脅しを使うような面白くない考えには、私は与しない。
長生きすればするほど、新しい若い者たちが世に出てくる。彼らに道を譲らなければならない。
無様な死に方なら笑ってもらえるかもしれない。反面教師になるかもしれない。
そもそも、生き返った人がいない以上、死ななきゃわからないんだから、面白い面白くないは判断のしようが無い。
いずくんぞ死をや、などと言ってしまうのもどうかと思うが。悩みすぎるのもどうかと思う。

4 comments:

Anonymous said...

三冶さん、子供の頃から哲学的なこと考えていたのね(笑)

「基準を自分に置く」のは当たり前のようでいて当たり前のことではないですものね。
人の基準や世間の基準に捉われている部分がかなりあって。

私、三冶さんより年上だけれど、最近、とみに思うわ。<自分軸>で生きている人は強いと。

行き過ぎると無責任だけの存在になる恐れもあるものの、世間体とか気にしないだけに、良くも悪くもマイペース「人は人、自分は自分」で、目的というか自分のやりたい事がはっきりしていて、その欲望?に対して忠実そのもの、いくつになってもエネルギッシュで若いもの☆

自分の為なのに「人の為に」「○○の為に」「○○してあげたのに」とか、ガタガタ言う恩着せがましい事この上ないお為ごかしの手合いより、よっぽど(自分に正直な分)好感が持てなくもないし、何より悔いはあっても諦めがつくと思うもの。やりたい事をやって生きてきた訳だから。

私もこれから、ますます「自分が基準」の自分軸で生きていくつもりですわ(笑)

三治 said...

子供の頃はちっとも哲学的じゃないですよ。
ただ寝る前に「こわいよー死ぬのこわいよー」って泣いてただけですから。
中学なるかなんないかぐらいの頃に、たまたま哲学史みたいな漫画読んで。うっすらそんなこと考えるようになったのはそれからですね。
ちなみにベンサムとかミルとかさも知悉しているかのように書いてますが、知識のほとんどはそこで得たものですww
人の話ってね。私は昔から話半分しか聞かないんですよ。全部聞いても全部自分に取り込めるわけじゃないんで。なら最初から半分でいいや、と。
おかげで中途半端な理解だ、とよく突っ込まれますけどね。全部聞いてもわかんない部分はわかんないですから。
わかんない部分があることを把握してるほうが、わかったつもりになっちゃってるよりはいいのかな、と。言い訳ですけどねww

Anonymous said...

こんばんは☆

>人の話は半分しか聞かない

いいんじゃない(笑)ポイント抑えていれば・・・っていうより普通そうなんじゃない?

でもその割に三冶さん、ベンサム?にしろミル?にしろ、ほら、例のアイポリスの一件(笑)の時、中学時代の公民権?何とかの知識を忘れずに応用し、生活の智慧としていたのは凄いんじゃない。
(だって、私、「えっ?そんなこと習ったっけ?!」て一瞬、考え込みましたもの)

私なんかが授業の内容で(かろうじて)覚えているのは、江戸時代の連帯責任「五人組制度」(理不尽だな、と思って)とか、授業に全く関係のない横道の逸れた、先生の思い出話・・・

ー戦時中、先生が初年兵だった時、ゲートル着けたまま正座を命じられて、2時間後に正座を解くのを許された時、足の感覚がなくなってポロポロ涙がこぼれたーという中学時代
の先生のお話だとか

ー戦後、釣りをしていた時、汽車から進駐軍が食パンを1斤投げ捨て、カビが生えていたそれを拾って(何せ食料難の時代ですゆえ)大喜びで食べたあの時の味「こんな美味しいものがあるのか!」その感激は今でも忘れられない!-という小学校1年の時の担任の先生のお話であるとか

「ポイント抑えていれば」なんて以前の問題、その手の内容はいつまでも覚えているんですけれどね・・・私の場合。

ところで、なかなか遡れませんわ。このプログ!
内容濃すぎて(別に理解できないとか難しいとかではなく)深くいろいろ考えさせられるので、とても!

そんなわけでぼちぼちと気長に読んでいきたいと思いますわ♪
アッ、それと私、自分でどこにコメントしたのか迷子状態に陥っているんですけれど(笑)

         以上マリアでした☆

三治 said...

「公民」って教科書、ありませんでした?中学の社会科で。
憲法の前文の暗記とか。やりませんでした?
年代が違うと違うのかなあ。その教科書の「基本的人権」の中でやります。「表現の自由」とか。

コメントがわかんなくなった時は、「最近のコメント」をポチっと押すと、近10件分ぐらいのコメントが出るようにしてあるんですけどね。
ただ、その表示がIE6.0と相性悪いみたいで。実は私も見えてないんですがw
ぼちぼちあちこち改修しておりますので。気長にお待ち下さい。

↑ このブログがお楽しみ頂けたら押して下さい。ただの「拍手」です。