空白の時間
つい、常盤公園で長居してしまった。
まだ回りたいところは山ほどあるのに。
12時。まずは昼飯。あの、懐かしい食堂を探す。
実は私が生まれる前にも、私の両親は旭川にいたことがある。姉は旭川で生まれている。生後1ヶ月で引っ越したから当人にはほぼ関係ない話だが。
小学校2年の春。東京から引っ越してきて、しばらくして。母と姉と、母が抱えたまだ小さい妹と。ヨーカドーへ行った帰りのバスで、ちょっと降りましょうと母が言った。
東京から来た私には、でこぼこの砂利道がとにかく珍しかった。砂利道なのに東京の道よりずっと広いから、知らない道に来るたびにはしゃいで駆けずり回っていた。
連れられて入ったのは、小さなよくある街の食堂だった。
お父さんとよく来たのよ、と母は一人はしゃぎ気味だったが。私はまだ駆け回るのに夢中、年頃の姉はそんな私を鬱陶しがり、家族全体の空気はバラバラだった。
その時食べたラーメンが、まさに衝撃だったのである。
東京で食べたものとはまるで別モノだった。夢中で食べた。外食は残してしまうのが普通だった私が、ペロリと平らげたのである。
しかも、安かった。確か200円か250円だったと思う。約25年前とはいえ、当時でも安い。
家族は満足感に満たされた。おいしいものを食べた満足感には、それを共有した人同士を融和させる力がある。食前が嘘のように、幸せに包まれ仲良く手をとりあって帰ったのを、よく覚えている。
その後は家が遠いのであまり行く機会がなかったが。バスから見えるその店の場所を、私は通りすがるたびにしっかりと確認していた。
その後、5年生だったか。野球部の友人同士でスタルヒン球場に広島ヤクルト戦を見に行った帰りに、私は皆に、得意げにここを教えた。子供ばかり6・7人連れの団体は迷惑だったろうに、店のおばちゃんは優しかった。
皆、大絶賛だった。何より、外野自由席でも大出費だった私達には、その値段が有難かった。
親子二代、思い出が詰まった店なのである。
ヨーカドーの前から、日の出橋を渡る。すぐの信号の左手に・・・
無い。
一本手前。やはり、無い。
無理も無い。20年経っている。
カレーアイスだって無かったじゃないか。仕方が無いんだ。
しかし。この喪失感は、ごまかせなかった。有名なラーメン屋に行く気になどなれなかった。あそこでなきゃ、意味が無いんだ。
失意のうちに、昼食は結局いつもの、コンビニで惣菜パン2つと野菜ジュース、になった。
が。
実は、無くしていたのは私の記憶のほうだったらしい。
帰って早速ネットで検索したら、元気に営業中でした。
ちなみに、その場所は。「一本手前」ではなく、「一本奥」でした(;^ω^)
本当に無くなったら次行った時本当に悲しいので、微かに宣伝。
東5条にある「すず」っていう食堂です。今でも350円でラーメン食べられるみたいです。
何せ20年食ってないのでよくわかりませんが、おいしいですよ。多分。
ラーメン以外にもいろいろあります。多分。
次は。どうしても確認しておきたい場所があった。
私が通った小学校にあった、アカシヤの木である。携帯のホームページにチラッと書いた、あれだ。
校舎が建て替えられたのは、前に営業で通りがかった時に確認した。
私の通った、あの木造で廊下がギシギシいう、石炭ストーブで何度もボヤ騒ぎが起きたあの校舎はもう、無い。
最近の小学校は、極力古木を残して建て替える。あの木は、かなり大きく立派だった。
あの木ぐらいは。ひょっとしたら。残っていてくれ。
祈るような気持ちだった。
着いた瞬間に、無いとわかった。旧玄関前の、その木があった場所は、最近植えられたであろうごく若い木が並んでいた。大きめのイチョウが2本あったが、その木も記憶に無い。植えられたものかもしれない。
築山も、土俵も、バックネット裏の野球部の備品庫に使っていたコンテナも。
私の記憶の中の面影は、何も残っていなかった。
敷地が縮んだような印象すらあったが、これは恐らく私が大きくなったせいだろう。
それでも。グラウンドには、懐かしい光景があった。
野球部が、練習試合をしていたのである。
旭川というのは、非常に少年野球が盛んなところである。特に小学校レベルでは全道でもトップクラスにある。その素地があるから、生徒集めをしない公立高校でも春のセンバツに出た旭川南高のようなチームが出てくる。
小学校だから正確には「野球少年団」なのだが。誰もそうは言わない。「野球部」と言う。本気なのだ。
とにかく試合ができる期間が短いから、夏は毎週のように試合がある。公式戦というか、スポンサーがついた大会だけでも10以上あったし、それ以外も日曜にはびっちり練習試合が組まれた。
小学校は授業が終わるのが早い。週のほとんどを占める5時間授業の日は、2時半には掃除も終わる。日の長い6月はそこから、真っ暗になる8時まで練習するのだ。練習時間だけなら、高校より長いぐらいだ。
20年前だから、とにかく根性だった時代である。練習中は、一切水を飲まない。石ころを舐めてるとツバが出てくるからしのげるぜ、と先輩に教わり、みんな真に受けて石ころを咥えたまま走り回っていた。
それだけ練習して。帰ってからも壁キャッチしたり素振りしたりして。それでも、うまくならないだ。
私のいた小学校は、代々弱かった。市の大会で一つ勝てれば御の字のレベルだった。
隣の小学校も似たようなレベルで、とにかくそこにだけは勝て、と父母からプレッシャーをかけられた。対抗戦のように年3・4回は練習試合が組まれ、それが大会よりも重要な試合だったのである。
まさに、まさにその試合が行われていた。何故わかったか。ユニフォームがそのままだったのである。
20年の時を経てなお、レベルは変わっていないようだ。それが証拠に、スコアボードも用意されていない練習試合なのに、尋常でない数の父母が集まっている。やはり、大会より重要な練習試合のままなのだろう。
私も下手したら同級生が父母に混じっていてもおかしくない年なので、ネットの外からこそこそと盗むように写真を撮る怪しいオジサンになってしまった。
にしても、下手だ。見ているそばから、ニ盗に全くベースカバーも入らない。その次球、セカンドライナーをポロリとこぼし、処理をぐずぐずしているうちに1点取られてしまった。
元セカンドの私は、あやうく何やってんだバカタレが、と叫びそうになってしまったが。
現代の父母は、やっぱり20年前とは違うようだ。「どんま~い」「次集中よ!集中!」なんて甘い声が飛び交っている。
こりゃあ、何十年経っても弱いまんまだな。絶望に似た気分を味わいながら、校舎の周りをぶらぶら歩いた。
学校の裏側、と言っても昔はグラウンドだった場所に新校舎が建って、正門が大通側から裏道側に移っているので、今は裏というより表なのかもしれないが。
そこには公園がある。私のいた頃に整備が始まった公園だった。
最初に出来たのが、この野球グラウンドだった。恐らく4年生だろう、へっぴり腰で明らかに初心者な子供達が、ぼてぼてのノックをぽろぽろとこぼしまくっていた。
私が5年生の秋。このグラウンドが出来た時は、夢のようだった。全面土の学校グラウンドと違い、外野に芝生が敷かれていたからだ。
そもそも、狭い学校のグラウンドだけでは、どれかの学年が試合をしていたら他の学年は練習する場所が無い。これが出来てから、ようやく毎週土日に練習できるようになったのだ。
そこからさらに整備が進み、立派なアスレチック遊具や水浴び広場も出来ていた。
しかし、何せ20年である。私にとっては目新しいそれらは、皆一様に年季が入っていた。
新しいのに、古い。それは、空白の時間を強く意識させる風景だった。
学校に隣接する古びた住居が並んでいた区域には、高そうな立派な家が並んでいた。この公園のおかげか、だいぶ住む人も入れ替わったようだ。
20年前からあったアパートが、さらに古びて窮屈そうに立ちすくんでいた。
すっかりピカピカの新校舎前で、唯一懐かしく思えるものを見つけた。
野菜畑。畝が切ってある。二年生はもう、茄子とヘチマ?かひょうたん?か、つる性の何かを植えていた。
この学校は昔から、学年ごとに畑を作るのだ。花壇ではなく、畑である。さすが屯田兵の街、その伝統は変わらない。
昔は田んぼもあったのだが、流石にそれは無くなっていた。この畑は最後の砦と、強行に主張して残したのだろう。
現代的な立派な校舎の脇に、ひっそりと貧乏くさい野菜畑。何だかあの薄暗い半地下の石炭小屋を思い出した。
失ってはいけないものだけは、残してくれていた。有難かった。
通学ルートを通って、家のあった場所まで。車の視点からはあまり見たことが無いので、何だか変な気分だが。
いきなり、懐かしいものを発見した。
つい先日の記事に書いた、「背筋を正した大窓」、それが、これだ。
より正確にはこの店と、その対面の喫茶店の大窓。この二つどちらかは、一人の時は必ず見た。練習帰りで泥だらけの顔で、爽やかに見せるには。そんな下らないことばかり考えていた。
あんまりモテたいだとか、そういう無茶な望みは持っていなかった、ような、というかそう思いたいが。
とにかく自意識過剰だったのである。
もう少し行くと、妹が通った保育園がある。ここは、完全にそのまま残っていた。
私にとってはむしろ、ラジオ体操の会場として思い出深い。たいてい遅刻して、第二の最後ちょっとだけやってハンコはちゃっかりもらっていた。
終わるとそこいらの遊具で友達と遊んで帰るのだが。ここの保育園は何せ画期的だった。
滑り台が三台もあるのもすごかったが。それよりすごいのが、砂場に屋根があったのである。
雨でも砂場で遊べる、なんて場所は他にはなかった。家の中でファミコンをしていても、すぐ飽きる。という時に、ここは格好の遊び場だった。
住んでいた社宅があった場所は、今はすっかり瀟洒な高級住宅街になっている。
ここも、以前来た時に早足で駆け抜けてはいた。が。ゆっくり回ってみるとまた、感慨深いものがある。
とにかく古臭い建物だった。もともと二戸続きの長屋風の平屋建物を、中で繋げて家族向けにしたらしく、玄関の反対に元玄関と思われる変な壁があった。
家の裏には、各戸備え付けで家庭菜園と言うにはかなり大きい畑があった。やっぱり、屯田兵の街である。集合住宅を作るとつい屯田住宅風にしてしまうものだったらしい。そして、どの家も熱心に栽培に励んでいた。
七輪で焼肉をした狭い玄関前の砂利道。雪解け時期には小川になって流れていた木の側溝。ぼろっちい木塀。今は、何にも無い。
昔友達が住んでいた家も、残っているのは1/3あるだろうか。残った家も、表札が変わっていたりする。呼び鈴は、押せない。
改めて、20年は長い。
でも、住んでいたのが私だったのは、この街には幸せだったんじゃないだろうか。
記憶力、特に幼少期の記憶力には自信がある。
あと何年生きているかわからないが。私が生きている間は、あの街のまま。私の中で生きている。
いよいよ時間が無くなってきた。
おまけに、携帯の電池が無い。
この付近でどうしても見たかった場所は、まだあった。
スキーをした堤防。どじょうを取っていて流されかけた橋の下。秘密基地を作ったのに、翌日に大水で全部流された河川敷のヤナギ林。
見に行った、ところで電池が切れた。車にシガーソケット用の充電器はあるが。使ったことがある方はご存知の通り、あれは普通の充電器より速度が遅い。
観念して、目にだけ焼き付けた。
場所の性格上、時代を経てもそんなに変わらないところらしい。
川の街旭川。川のある風景は、あの日のままだった。
充電をしながら、街を走る。国道沿いは、ずいぶん大型店が増えた。パチンコ屋もこんなにあったろうか。
そろりそろりと、魔の手が忍んでは来ているようだ。
街にとって、守らなければならないのは、街の持つ精神である。
都会から発信される情報に流されたが最後、飲み込まれる。
その象徴が、大型スーパーだ。商工会に関係ない住民は、どこでもまず反対しない。歓迎する。
しかし。やってきたが最後。大型店に地域の特色ある店が潰され、スーパーには都会と同じモノだけが並ぶ。同じモノしか手に入らなくなる。その街にしかなかったものが、失われるのだ。
そうなったら人は、特に若者は、町を捨てる。都会に出れば、いろいろなモノがある。そのごく一部しかない田舎より、都会がいいと思うのは必然だろう。
人が減り、採算がとれなくなった地方からは、大手は簡単に撤退する。残るものは。何も無い。
国道沿いの、トイレ休憩用のコンビニだけが明るく夜中まで光り、後はシャッターの閉まった店しかない街。
北海道の田舎には、そんな街がいくつもある。
ある程度の大きさがある街だって、釧路。函館。小樽。室蘭。帯広。みんな人口が減り、同じ病を抱えている。
旭川だけは。まだ手の打ちようがある、旭川だけは。
ここにしかないものは、何とか守り通していてくれ。
走るうちに、祈るような気持ちになった。
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