また来るぜ。旭川
さて。次はどこへ。
もう残された時間は限りがある。
動物園だとか、ユーカラ織工芸館だとか。アイヌ民族資料館だとか。そういう有名スポットは、今後も来る機会があるだろう。
せっかく一人なのだ。一人でなければ来ない場所を優先に。
あてどなく走るうちに、行きたい場所、一人でなければまず行かない場所。思い出した。
それは、外国樹種見本林の只中に、ひっそりと建っていた。
思ったより小さなその建物は、何だか寂しげなようで、でもその佇まいが、作家によく似合っている気もした。
三浦綾子記念文学館である。
最近の人は、北海道で作家といえば倉本聰などとぬかしやがるが。
あんな麻布中高出の野郎に、北海道が描けてたまるものか。
「北の国から」は小さい頃好きで、よく見ていたが。
今見ても子供騙しとしか思えぬ。
特に最近は、嘘ばっかりついている。あれは、駄目だ。
北海道出身の作家なら、安部公房や小林多喜二のような文学界に名を刻む巨匠や京極夏彦や渡辺淳一のような現代の人気作家だっているのに。何でよりによって倉本なのか。
まあ、文句を言っていても仕方ない。
北海道に生まれ、北海道を描いた作家。そして、北海道の人に愛された作家。といえば、三浦綾子ではないか。と私は思う。
私と三浦綾子の出会いは、ちょうど旭川から引っ越す寸前まで遡る。それは、まったくの偶然だった。
小さい頃から本は好きだったが、その頃読んでいたのはせいぜいズッコケ三人組やモーリス・ルブランの原作を子供向けに書き直したルパンシリーズだった。
初めて読んだ文学作品らしい文学作品は、伊藤左千夫の『野菊の墓』である。たまたまその頃、松田聖子主演の映画だかドラマだかが話題だった。たまたま父の書棚で見つけたので、読んでみたのだ。
ぼろぼろ泣いた。悲しかった。こんなに悲しい話があったのか、と思った。
幼いながらに、自分が今までなんて下らないものばかり読んでいたのか、と思った。
本棚に戻したときに、その隣の本も面白いだろう、そんな気分になった。
それがまさに、三浦綾子の『泥流地帯』だったのだ。
打ちのめされた。
なんだこれは、と思った。
そこに、幼い頃から読みなれた勧善懲悪のマンネリズムは、全くなかった。
何一つ悪いことはしていない、どころか真面目で模範的な耕作の一家に、次々と苦難が襲い掛かってきた。
ほんのりとした初恋の人は、遊郭に売り飛ばされる。
美しく描かれる風景と対照的な、人の中で蠢くリアルなエゴイズムもまた、詳細に精緻に描写されていた。
そして、全ては、十勝岳の噴火による泥流に、押し流される。
溶岩泥がこびりついた農地には、再生の希望すら持てない。
涙が出るどころではなかった。
なんだこれは。
なんだ、これは。
世の中って、こんなところなのか。
まさに、トラウマである。
私の心象の原風景の一部は、未だにこの小説の中にある。
つい前日、あれだけぼろぼろ泣いて感動した野菊の墓が、もはや下らないものにしか思えなくなった。
私に、真の意味で、文学の扉を開いてくれた一冊。
それが、三浦綾子のこの本だった。
記念館の中は、まあ覚悟はしていたが、三浦綾子という作家の人生と、最大のヒット作『氷点』に纏わる展示でほとんどが占められていた。
他の作家の記念館なら、素通りして15分で退室してしまうかもしれない。私は心底から、作家の人生というのに興味が無い。ヒット作の映画化エピソードなんてさらに興味が無い。
でも、出なかった。私にとってこの作家は、そんなことを出来るほど小さな存在ではないらしい。
生家の地図を見て、ああ、今のヨーカドーのあたりか、と思い返したり。
幼少期の作文を見て、そのご機嫌取りのあからさまな調子に自分の作文を思い出してクスクス笑ったり。
病苦の時期に胸が痛んだり。
夫との姿に理想を見たり。
実は、そんなに三浦作品を読んでいない私だが。
それでも、いつまでもぐるぐると回っていた。
絵本を見つけた。
真っ赤なりんごの木。そこになかなか辿り着けない、子供の好奇心を描いた絵本。
決して面白くは無かった。子供が読んでも、なんのことやらよくわからないだろう。
でも、その筆致に、三浦の子供を見つめる優しい眼差しを見た気がして、やっぱり微笑ましかった。
また時間をくった。
もう、本当に時間が無い。
帰りがけに、それこそ一人でしか見て回れない、ある意味調べ物をしようと私は考えていたのだ。
高砂台を抜けながら、よっぽどこのまま帰るべきかとも思ったが。
やっぱりどうしてももう一箇所、どうしても見に行きたい所があった。
神居古潭。
滔滔とゆったりと上川盆地を流れ来て、たくさんの支流を旭川市内で束ねた石狩川は、ここでちょっと怒る。
むかしむかし、ここに人が住むよりずっと昔。
北海道の西半分と東半分は、このあたりで衝突した。そして、今の形の北海道になった。
その時の変成岩の固い岩盤では、さすがの石狩川も偉そうに肩幅を広げて通るわけにはいかない。
水の量は多いが幅は狭い。どうなるか。下を深く抉り取り、しかも曲がりくねっているから渦を巻きながら抉り取り。深く深く抉られたその川底は、70mも下にあるんだそうな。
むかしむかし。アイヌと呼ばれた人しかこのあたりにいなかった頃。
交通手段は、川を渡る船しかなかった。
ここは、ひどい難所だった。沢山の船が、渦に巻かれ、沈んだ。
ここは、魔神が棲む場所だ。人々は、祈りを捧げながら恐る恐る進んだ。
だから、神の棲む町。カムイコタンと呼ばれたのである。
実は、初めて来た。
旭川の人は、あんまり行かない場所だ。何故かは知らないが、昔この近くのキャンプ場で野球部のキャンプをしたとき、それは恐ろしい怪談を聞かされた。
やはり、恐ろしいまでに美しい場所、というのは、昔死んだ人が大勢いたことを知っている場所、というのは、なかなか人が寄り付かないものらしい。他では、支笏湖がそうだ。
そして、この場所の上にかかっている橋がまた、怖い。下に足場を組んで頑丈な橋を、なんて無理な相談だからだろう。古びた木製の橋は、一人普通に歩いただけで、揺れる。しかもご丁寧に、「100人以上では渡れません」なんて看板が立っている。
実は私は、橋がちょっと怖い。高所恐怖症ではないが、下を水という物質が流れる橋は、下が空洞であることを意識させられて、何だか嫌なのだ。
本当はもう少しきれいに写真を撮ることもできそうなのだが。怖いので、逃げた。
対岸の階段を上ると、何だかテツのみなさんが泣いて喜びそうな場所に出た。
ここには昔列車が通っていたらしく。
SLの車両が展示され、古いホームはそのまま残されて線路跡はサイクリングロードになっていた。
古い駅舎が休憩所になっており、それがまたいい感じだった。
旭川の人は、本当に何でもなさそうな古いものを大事にする。
普通の町なら、とっくに取り壊されているだろう。私の会社の町の森林鉄道跡なんて、跡形も無い。
この場所が、今日で終わり、となったその日。
その時点では、多くの人にその場所の古いものは邪魔モノでしかなくなるのだが。
20年30年、50年100年1000年と年を重ねるごとに、その時間がその邪魔モノに輝きを与える。
それをわかっているうちは、この街は大丈夫だ。
国道沿いの風景に感じていた一抹の不安は、この場所を見てだいぶ和らいだ。
売店に戻ると、顔を見ただけでアイヌの血が入ってるな、とわかるおばちゃんが、犬を連れ散歩に来たらしい外国人の奥さんと談笑していた。
「あれはなんと言いますか?トビ?トンビ?」
「あんたそりゃどっちでも一緒だよ。この辺の人はトンビって言うけどねえ。」
そんな何でもない会話に、また安心した。
きっとこの街は、大丈夫だ。
また来た時も、私を暖かく迎えてくれるだろう。
また来るぜ。旭川。
てゆうかね、あのね。誰か旭川でいい仕事のクチ、知りませんかね?
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