好悪の彼方
例えば、の話である。
一人の男がいたとしよう。
この男は、何らかの理由で社会から疎外され、蔑まれていた。
心底、社会が憎いと思った。殺そうと思った。
誰を?全部さ。
一人殺し。二人殺し。十人。百人。千人。
ついには60億人全員殺して、一人でニヤニヤ笑ってたってさ。
さて。この男は善だろうか?悪だろうか?
あなたに裁くことが出来るだろうか?
答えは。善でも悪でも、ない。
そもそも裁くことが出来ない。
何故って?よく考えてごらん。
皆殺しだぜ?アンタもいないんだよ。誰もいないのに誰が裁く?
神とかいう冗談ならよそうか。俺はそんなの見たことないし、大方の人は見たことないぜ。
俺には見えるって?知らないよそんなの。俺にも信じられる証拠を揃えてから言ってくれ。
他の生き物が喜ぶかもね、って?
確かにそうだろうね。人間なんて、全ての生き物の天敵みたいなもんだから。
だけど、彼らに善だの悪だの言ってわかるのかい?
俺には彼らの声が聞こえるって?だから証拠を出せってば。
じゃあ、誰が。生きているのは、善悪を考えられるのは。一人しかいない。
彼自身である。
彼は自分を、善というか悪というか。
あなたにはわかりますか?
私にはわからないし、半ば確信を持って言える。
彼にしかわからない、ってね。
善悪なんて、所詮そんなもんである。誰かの評価、それだけのことだ。
一人一人の中にしかないものを、多数決とって普遍的真理ということにしたがっているだけだ。
何のため?自分にとって都合の悪い存在を押し潰すためさ。
皆殺しの犯人は、「悪だ」ということにしたい。自分が殺されるからだ。同じように殺されそうな人を集めて、潰そうとしているだけだろう。
自分の中で、良いとか悪いとか。それは、「善悪」より適した呼び方がある。
それは「好悪」、好き嫌いと言うのである。
私の中では、世の中のほとんどは「好き」「嫌い」「どうでもいい」で分けられる。
足が速いか遅いかなら、タイムを計ればわかる。
テストの○×で成績もわかる。
だが、それを「いい」とみるか「悪い」とみるかは、あくまで足の速さなりテストなり、その枠内でのことだ。
いくら足が速くたって自動車にはかなわないし、いくらテストの点が悪くたって教科書を調べれば答えは出る。
足は遅いけどドライビングは一級品の人はいるだろうし、天才的カンニングで有名大学に入学した人だっているだろう。
それをそれぞれどう評価するか、となったら、好き嫌い以外何があるというのか。
私だけの話だとは思っていない。気付いていないか、認めようとしないだけではないか。
誰だって好き嫌いだけで判断している。ひとつの事象を複雑で複合的な各条件に分け、ココは好きだけどココは嫌い、総合すると、ということを無意識下で行っているだけで、その他の基準なんかあるわけがないと思っている。
何かを食ったら誰でも、うまいとかまずいとか思う。甘みが強いか弱いか、苦味が強いか弱いか、条件別に別に感じたことを総合する。チョコレートが甘すぎても甘くなさすぎても、苦すぎても苦くなさすぎてもうまくないように。
そして、好きなチョコレートの味は人それぞれ違う。全てのチョコレートが嫌いな人もいる。
食べ物の味なら誰でも納得する話だろう。他のことだって同じだ、と私は思うのだが。
ただし。私の中には、好悪を超えたところにあるものもある。多分、誰の中にもある。
愛だ。
目に入れても痛くない、ってのはうまく言ったもんだ。
例え殺されたって愛してる、という存在が、私にはある。
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