2008-02-25

離脳の憂鬱

毎週月曜日は、漫画雑誌を買う。
高校2年ぐらいからだから、もう15年になるんだろうか。同じ雑誌を惰性で買い続けているのである。
楽しみかと言えば、そうでもない。本当に楽しみな連載なんて、随分長いこと無いままだ。
それでも、買わずにいられない。たまに忘れて水曜ぐらいまで買い逃すと、気持ちが悪くてたまらない。何軒でも本屋やコンビニを回って探し求めるのである。
なぜそんなに中毒か依存症のように「やめられない」のか、今朝コンビニで買い求めた時はそんなことを書いてみようと思っていたのだが。昼休みに読んでいるうちに、そういう気分ではなくなった。
むしろ、もっと書いておかなければいけないことを思いついたのである。
 
漫画だけではない。新聞でも小説でも論文でもインターネットでもテレビでも何でも、何かを観たり読んだりしている時の私は、さながら小学生のようである。いや、小学生の頃はもっとひどかった。これでもだいぶマシになってはいるのだが、それでもまだそのへんの小学生よりはひどいのではないかと思う。
心、ここにあらず。集中しきって、全く周りの事柄がわからなくなるのである。
話かけられても聞こえない。飯の最中でも食べるのを忘れている。ひどい時だと、味噌汁にどぼどぼと醤油を注いでいたりしても、気付かない。
感情移入という言葉があるが、そんな生易しいものではない。
あえて無い言葉でもって表現しようとするなら、「離脳」である。
後頭部の後ろあたりに、脳が自分で描き出した夢幻の世界に、脳みそ自身でぷかぷか浮いていってしまい、もやもやと漂っているかのような。そんな感覚である。
その世界では、目や耳の五感すら遠い。一旦肉体を介した後で、間接的に「後ろの世界」にいる脳まで伝わってくるかのような。そんな感覚である。
そこから戻って来る時を表現した、我に返る、という言葉もある。これは割に近い。だが、やはり感情移入のレベルの人の用いる語ではなかろうか、とも思う。
私のぷかぷか浮かんだ脳みそは、そんなに簡単に現実の肉体には戻れない。少し、酔う。
浮いた後、遠く奥深い所まで沈んでしまう時もあって、そういう時は軽い目眩すら覚える。
 
昼休み。車の中で1人パンを齧りながら、漫画を読んでいたのである。
昨日までの大雪と強風が嘘のように、2月の終わりの日差しは暖かく。エンジンもかけずひとりぬくぬくと読み耽っていたのである。
それが、よくなかった。ふと時計を見ることを思い出した時には、既に1時を回っていた。出先からの帰りだったので時間の縛りは無かったのだが、少し驚いた。
外に出た。社用車は最近、車内禁煙になったからである。
ぱっと日の光に照らされる。厚く降り積もった雪からの照り返しも加わって、一瞬世界が白くなった。
そのまま、貧血のようにぐらぐらと目眩を起こしてしゃがみこんだ。立てない。
心臓に手を当てる。動いていた。よかった、大丈夫だ。そう思ったら、少しずつ世界は暗く落ち着いてきた。
2本続けざまにタバコをふかしても、まだ足が浮いているような気持ち悪さが残った。
丁度、船や飛行機に長時間乗って陸に降りた時のような。文字通り、地に足つかないのである。
次第に不安になる。私は、今、生きているのだろうか。
私は、この世界に存在するのだろうか。
 
いい加減4時間経って、浮遊感は無くなった今でも、不快感だけはねっとりと残っている。
生きているんだかいないんだかすら、よくわからない。
我思う故に我あり?懐疑論で自己の存在を証明できるなんて、嘘じゃないだろうか。デカルトが単純すぎるだけじゃないのか。

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