2006-10-03

思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ。播かず、刈らず、蔵に収めず

聖書の一節である。
ヒト以外の生き物の本質と、ヒトの抱える原罪というものを、鋭く抉り出している。
しかし、それではヒトとして生き長らえ得ぬのもまた事実であろう。

播かぬとすれば。
食料を求めて、常に動き続けねばならないだろう。
刈らぬとすれば。
常に食料に追われ、余暇を見出せぬまま生涯を終えるだろう。
蔵に収めぬとすれば。
何かが変わり食料が無くなれば、何も出来ぬまま飢え死んだだろう。

播いたからこそ。
ヒトは家に住み、町を作ることが出来た。
刈ったからこそ。
想いを巡らす時を得て、より良い未来を思い描くことができた。
蔵に収めたからこそ。
子孫を増やしても生き続けることができるようになったのである。

食料という、生き物にとって最も切実な問題を、労力なく解決できる方法を得たことで、
働かなくとも生きていられる者がいる、という状況を生んだ。
権力者と奴隷の構造の起源である。
よりよく生きたいという本能は、やがてヒト独特の欲望へと変化した。
そして、より楽な生活を追い求め、播き刈り収める以上のことを始めた。
山を切り崩し、森を薙ぎ払い、川を堰き止め、土地を奪い合い。
余暇に任せた科学技術の進歩と共に、生き物の根源たる遺伝子を組替える術すら手に入れた。
ヒトはそれを「発展」と呼び、未来永劫続いていくかのように考えてきた。

だが、それは虚構に過ぎなかった。
全ての人間は、自分に都合よく物事を考えるように出来ている。
裏返せば、自分の都合に関係がなさそうなところには関心がいかなかった。

そのツケが、どっと出始めた。それが現代である。
地球温暖化。
オゾン層の破壊。
砂漠の拡大。
明らかに現在の人知を超えた規模で、地球は変わってゆく。

ヒトは、どこに向かうべきなのか。
向かうべき道は、二つである。

一つは、今のまま進むこと。
既に、無機物から薬品を作り出すまでに至ったヒトのことだ。
石油系廃棄物から食料を生産したり、石ころから水を作り出したり、
そもそも原子構造を組替えて人間に都合の良い星を作るぐらいまで出来るのかもしれない。

だが、破壊のスピードに追いつき追い越すことが出来るのだろうか。
未だ、不老不死の人間すら生まれてはいないが。
今の生活様式のままでは、恐らく地球は保ってあと100年だろう。
あと100年で、どこまで進むことが出来るか。
これは非常にスリリングな争いになりそうだ。
戦争している暇は無い。その労力は全て発展に注ぎ込まなくてはならない。

尤も、その争いを制した所で、太陽の寿命はあと50億年ほどと推定されている。
それまでに次第に膨張するから、今の環境のままでいられるのは20億年とか。
その時、どうするのか。
地球を捨て、何処か他の星に移り住むのか。
はたまた、太陽すらもコントロールし、膨張を止め生き長らえさせるのか。

もう一つは、自然と共に生きることである。
都合の悪い部分に目を向け。弱者扱いしてきた自然と、対等な立場に戻ることである。
ヒトが暴れまわる前の秩序を、再び取り戻すことである。

しかしこれとて、並大抵のことではない。
ヒトが作った初めての砂漠は、メソポタミアである。
4000年の昔のことだ。
それから今日まで、一人としてそれを達成できたものはいないのだ。

視点を変えなければならない。逆行させなければならない。
工から農へ、農から環境へと逆行は移り変わってきた。
今環境は、多くの人の目が向くものになった。
だが、まだまだ、もう二歩も三歩も戻らなくてはならない。

環境まで遡った上で、その次は。
今度は弱い自分と向き合わなくてはならない。


なぜ生きるのか。
どうやって生きるのか。
生きるとは何なのか。

自分は何を与えられているのか。
自分は何を与えられるのか。
自分は、正しいことに向かっているのか。


思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ。
播かず、刈らず、蔵に収めず。

答えは自分の中にしかないのだ。

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