2006-10-13

俗物だけに、謂わば情熱の客観的把握が、はっきりしている。

太宰の小説の一節である。
何だかふと思い出したのだ。
そんなもんかも知れないなあ、と、ティッシュで一生懸命鼻をほじりながら考えたのだ。
昨日から何だか鼻水が止まらない。
まあ考えたので、考えたままに書いてみる。

俗物とは何を指すか。
社会の権威に敏感であり、処世に長けた者である。
内面的自己と別に、もう一人の、社会通念による外面的自己の存在を把握している、ということだ。
そしてそれは、内面的自己を客観視し、そこから外面として有用なものを抽出する能力がある、ということでもあるわけだ。
だから、狂喜乱舞しようが憤怒の炎に包まれようが寂寞に居た堪れなかろうが愉悦に浸っていようが、
その時の自分を客体として捉える事ができることに繋がってくる。
だからだよね。

終わってしまったが。どうしようか。
仕方がないからまた自分に重ね合わせてみる。

私は、俗物である。それは異論を挟む余地がない。
いつだって見られる自分を意識しながら生きている。特に責任ある立場に置かれてからは、尚更だ。
しかも、手口が狡猾だ。
裏表なんかありません、人がどう思おうが関係ありません、と思っていると思わせるよう仕向けている。
根っからの詐欺師である。
だが、同時にそれぐらいでないとそうそう世の中生きてはいけないという現実を見ている、つもりだ。
だけどさ、疲れるんだよ。
いつだって演じていれば、疲れる。当たり前だ。

みんな多かれ少なかれ、そうなんじゃなかろうか。
だから精神科は年々業績を拡大するんじゃなかろうか。
そんなことを、やっぱり鼻糞ほじりながら考えていたんだよ。5分ぐらいね。
 
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