2007-01-22

題名の詩性

中身を全く読んでいないのに、題名だけは印象に焼き付いている本がある。
予備知識だけで言えば、私は恐らくこれからも読むことはないだろう。いい悪いでなく、興味がないのだ。
なのに、どうしても題名だけはへばりついて離れない。シンボルであり意味を持たないはずの題名だけが。
そんな話をしてみる。実際の本の内容とは一切関連の無い、私の印象だけの話である。
そういうつもりで、まあちょっと聞いてよ。
本を読むときの参考にはしないでね。

『神の左手悪魔の右手』

人間には、右脳と左脳、二つの脳がある。
それぞれの脳は、体を対側支配している。つまり、左手を司るのは右脳、右手を司るのは左脳、というわけだ。
そして、右脳はイメージ脳、左脳は論理脳、と言われる。
単純に、右利きだから左利きだから、ということは言えないらしいが。
両手で箸が使え、両手で文字を書け、それでいて大抵の処理は右手で行う私の感覚でも、左手と右手はあまりに違う。
同じ小石を拾い上げたって、右で拾うか左で拾うかで、考えていることが違うのだ。
こうだからこう、原因があって結果、直線的に解答を求める左脳。つまり右手。
それは、言い換えれば人間社会的なものである。人に説明できる部分だ。
右手は、外を向いた手である。
やんわりと、わかることもわからないことも包み込み、総合的印象として答えを導く右脳。つまり左手。
それは、あくまで自分にしかわからないものであり、説明できぬほど多くの、自己の全てからまとめあげたもの、と言える。
左手は、内を省みる手なのである。

ところで、悪というのは他者、つまり自分以外のものが存在しなければ生まれ得ぬものである。
盗みや殺しが悪なのは、それにより害を受けるものがいるからだ。悪という限り、それは全て他者に与えた影響のことなのである。
もしも自分しか存在しないとしたならば、盗もうが殺そうが、勝手だ。
尤も、自分で自分から物を盗む、というのは論理的に起こり得ないし、自分しかいないのに自分を殺す動機があるとも思えない。
何れ、他者。人とは限らない、何でも自分以外のもの、という意味での他者。
他者が存在するからこそ、悪はある。
他者に働きかける左脳は、悪魔を飼っているのだ。

内を省みる右脳には、他者は関係が無い。そこでは、自分では決して理由まで推し量ることができないものが、当然のこととして扱われる。
人が人である、根源。「生きろ」という、意思である。
なぜ、何のために生まれ、生き、死んでいくのか。その答えは誰も持たない。
それでも、人は生きている。
そこにあるのは、自分のものでありながら、自分が考えたのではないもの。
つまり、神の意志が宿っている。

神の意志と、悪魔の思考。それを両の手に宿すもの。


と、ここまで考えてしまうと。原作というか、その題名の漫画をどうするか。
読んでみたいような気も少しするんだが。
あんまりにも私の妄想とは関係無さそうなので、やっぱりやめておく。

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