2007-03-30

上から読んでも下から読んでも八百屋です。 ~22~

~閑話休題・公務員とスーパー職員~
 
先日紹介した山根治氏のブログで、私が見つけたときには公開されていなかった、氏が抱えた冤罪裁判に関わるノンフィクション『冤罪を創る人々』が、今週火曜の日付で再公開されていました。
(URL:http://yamaneosamu.seesaa.net/
PDF公開ですので、AdoveReaderを使ってお読み下さい。多くの携帯電話では読めません。)
昨日見つけて、今日の午前中までかかって全編読破しました。
正直、肝心の事件の背景(特に、発端になった佐原という人に関する記述)が少ないためわかりにくく、感情論に寄り過ぎ事件の真相に基づいてマルサや検察の行動を見る、という読み方ができにくい部分がありましたが。
堀江記事と同様、古文に通じ教養豊かな氏の、それでいて気取らないありのままの文体は、氏の抱えた非合理に向き合う心境を余すことなく伝えています。
 
つくづく思ったのは、役人という奴は、ということです。
私も少なからず公務員の方と接する機会があり、その中には人物的に尊敬できる人も数えだしたらキリがないほどいます。
しかし、およそどんなに立派な人であっても、私と決定的に相容れない部分、私には絶対に納得できない考え、というのを持っているようです。しかもそれは、私の知る限り全ての公務員に共通するものです。
山根氏のブログ、そこに登場する国税庁や検察庁など、公務員の中でも優秀とされる人々にも、それは共通しているようでした。その部分が引き伸ばされ、より悪質化したもの、という印象でした。
残念ながらそれは、一部のスーパー職員にも共通している部分でもあります。当時の私にも無かったとは言えません。むしろ最初のうちは、そのカタマリだった、ようにも思います。
その部分とは。「自分のメシのタネがどこにあるのかわかっていない」ということです。
 
今の資本主義社会で活動していれば、必ずその人には「払う相手」と「もらう相手」が必要になります。
狩猟採集のみによる完全な自給自足、もしくは賭博による収益のみでの生活をしていればその双方を消すことは可能ですが、それはもはや資本主義社会での生活とは言いません。
また、どちらかだけ消す、というのは不可能です。払う相手しかいなければ倒産だし、もらうだけのホームレスの人はやはり社会の一員とは認められていない状態になっています。もらうだけに見えるヒモですら、精神の安定の対価としての生活保障でしょう。
スーパーの青果部門であれば、野菜や果物を作る人にお金を払って仕入れ(実際には市場を介する場合がほとんどですが、便宜上省略します)、払ったより多いお金をお客さんにもらって利益が出て、それで生活しています。
この場合、お客さんは何らかの仕事をしてもらったお金をスーパーに払っています。もしその仕事が、野菜の収穫に絶対に必要なもの、例えば土地を扱う不動産業であったり、トラクターのような農耕具を作る仕事だったとしたら。三者の関係は三すくみになります。わかりやすく図式化すると、
 
 (←=金)
  農家←スーパー←┐
  └──────→客
 
 (→=モノ)
  ┌─→スーパー→客
  農家←─────┘
 
となります。
ものすごく大雑把に話をすれば、こうしたすくみ関係が幾層にも立体的に繋がって、社会が形成されているわけです。
人の間で金がぐるぐる回っているだけでは利益はどこにも無いハズですが。モノとして流通する、野菜などの他の生き物、石油や鉱物のような地下資源、太陽や原子力のようなエネルギー源などがそれを賄っています。
人の間で行ったり来たりするモノを、社会以外から得た分だけ社会全体で回る金という価値が増え、その分がそれぞれの「利益」に化けているわけです。
モノをとってこない仕事であっても、その「利益」の分け前を得るため、渡すものがあります。スーパーの青果は、野菜に加えて「利便性」を渡しています。学者や弁護士は「知識」を、医者やプログラマーは「技術」を、マスコミやIT企業は「情報」を渡すことで、対価を受け利益をあげているわけです。
もし、スーパーに「払う相手」がいなくなったら。青果であれば、「お前には野菜は渡さないよ」と言われたり、そもそも知り合いに農家がいなかったら。逆に、「もらう相手」がいなくなったら。全てのお客さんにソッポを向かれ、一人も店に来なくなったら。どちらも、店の商売は成立しません。
「人は一人では生きていけない」という言葉は、心や情の問題として語られる場合が多いようですが。物質的・経済的側面からもまさにそのとおりで、いろいろな人がいるから成立している仕組みなのです。
特に、「もらう相手」は重要です。「払う相手」というのは、自分に財さえあれば必ず見つかります。でも、「もらう相手」は、自分が欲しがられるモノを持っていなければ誰もいないのです。
つまり、仕事というのは「もらう相手」を得るために努力するものであり、金をもらうために持つものが「メシのタネ」なのです。
 
しかし。社会が膨らみ多様化・複雑化を進める中で、その複雑さ故にそのメシのタネの根本を忘れてしまっている人、そういう人が多くなる職業、というものがあります。
スーパーの職員、特に、一日客数が2000人を超えるような大型店の担当者には、その傾向が強くなります。
店には、毎日本当に多くのお客さんが来ます。一人一人が何を買ったかなんて、全くわかりません。人間の頭では詰め込みきれないし、たとえポイントカードのデータか何か使ってコンピューター上に全てを記憶させたとしても、それを全員分読む力も時間も人間にはありません。
仕方ないので、『客数』だとか、『年齢別動態』だとか、一人一人別々のお客さんを団体に区切って理解しようとします。結果、何となくモノを並べた売場から何となく物がなくなってゆき、レジには金がたまってゆく、自分がそれにどう関与したかなんて知らない、という、新人の三治君(仮名)の記事で紹介した状態に陥ってしまうのです。
「もらう相手」を意識しないで、とりあえず何でもいいからモノを並べとけばいい、という傲慢な発想の売場になります。もっと言えば、「もらう相手」を給料を払ってくれる上の人間、という勘違いをし、上の言うままに仕事をし、上に怒られない範囲で手抜きしながらやればいい、という売場になります
もちろん雇われている以上、雇い主と担当者の間には「労働力」を渡し「給料」を受ける、という関係があるのですが。「お客さん」という本当の「もらう相手」から見たら、社長も社員も変わらない、ということを忘れているのです
雇用という仕組みを持つ企業には全てで起こり得ることですが。スーパーの場合、上の人間が、ひいては企業体全体として「もらう相手」が見えていない場合が多いので、より起こりやすく、より深刻なのです。
私は、このシリーズを書いていく中で、意識して「お客さんとの関係」を強調してきました。そこには多分に、担当者当時の自分への自戒も込めたつもりです。
 
公務員では、よりその構造がひどいものになります。
本来、民主主義国家での公務員の仕事、公共事業というのは、みんなから集めた税金を、みんなにとって役に立つことのために使う、ということです。公務員が「公僕」(おおやけのしもべ、つまり社会正義のため尽くす人、ということ)と呼ばれる所以です。
誰かの役に立つために仕事をし、対価をもらう、という関係は民間企業と何も違わないのですが。「払う相手」と「もらう相手」、さらに「渡すモノ(公共事業)」の関係が不明確です。
どういうことか。例を考えてみると。
川の淵に住んでいる人がいるとします。この川はしょっちゅう氾濫します。
その人が、洪水から自分の家を守るために自分のお金でできること、というのは、せいぜい床を高くすることぐらいでしょう。
自分の家の前だけ堤防を作っても、意味がありません。堤防の周りから流れてくる水で結局水びたしになるからです。
では、その川のそばに住むみんなで、自分の家の前に堤防を作ったら。
川の淵に全て人が住んでいればそれで解決かもしれませんが、そんな川はありません。空き地はあるし、道路の橋はかかっているし。そうした隙間から水が溢れてしまいます。
さらに。川が溢れれば、被害を受けるのは川の淵だけではありません。水は低きに流れ、周辺の平地ほとんどが水浸しになるのです。その分の負担が川の淵に住んでいる人だけの負担になるのは、不公平でしょう。
そこで、流域のみんなでお金を出し合い話し合い、川全体に堤防を作ろう、ということになります。これが民主主義の考え方なのです。
みんなのためにやるべきことは、堤防に限りません。多種多様にあります。それを毎回何千人何万人という人が集まって作業をやっていては効率が悪いので、お金だけ出し合って決まった人がやることにしました。
その人は忙しくなるので、その人の生活も集めたお金で面倒見ることにしました。それが公務員です。
みんなのために集めたお金を使い、さらに生活もするのですから、「もらう相手」は市民全員です。しかし、「払う相手」は?こと仕事上だけで考えれば、誰もいません。公務員は、みんなに必要なことをやってもらうためだけの存在であり、その「必要なこと」こそがみんなへの支払いだからです。
 
じゃあそういう意識で仕事をしている公務員がいるのか。私の知る限り、誰一人いません。
何故か。あまりに役所の規模、収税対象の規模が大きくなりすぎて「もらう相手」たる私たちには何のために払っているのか、という意識が薄くなり、また公務員からも誰からもらった金なのか、という意識が無くなっているからです。
今の公務員達はむしろ、みんなのためにやってやっている、ぐらいの気持ちでいます。「もらう相手」が無条件で確保されているのをいいことに、それらを下に見ているのです。
役所に行って、小売店より丁寧な対応を受けた、という人はいるでしょうか?絶対にいないと思うのですが。
一人が1年で払う税金の額は、どれぐらいになるでしょうか。税にうとく給与明細もロクに見ない私にはとんとわかりませんが、唯一自分が媒介していたのでよーく知っている税があります。消費税です。
年間500万の手取り給料の人なら、少なくとも400万ぐらいは何かを買うのに使うでしょうが。そこに一律5%税がかかります。それだけで年間20万円です。
レジで別に計算していた昔と違い、今は全ての小売店に消費税を含めた総額表示が義務付けられているので、払っているかどうかもよくわからなくなった消費税ですが。その分だけでも、例えば同じ洋服屋で年何回かに分けてその額を使ったら。どうでしょう?行く度に上得意として、丁寧な応対を受けるはずなのですが。
公務員一人あたりに、市民一人あたりいくら税金を払っているかなんて、この場合関係ありません。スーパーの職員も社長も客からしたら同じなように、市の助役も保険係の職員も、市民からしたら同じです。公務員全て同じなんです。払った分だけの仕事を求めるのは当然のことなのです。
さらに。スーパーと同じ誤謬を、上から下までほぼ全ての公務員が犯しています。メシのタネがほぼ未来永劫確保されているように見えるが故に、逆に見えにくなり、混乱するのです。つまり、自分の「もらう相手」は上司であり、所属している役所だと思っています
だから、市民に必要なことがどうとかよりも組織が重要で、組織に歯向かう者は例え模範納税者であっても、敵なのです
市民が選んだ国会議員によって、彼ら行政の最上の上司である大臣は決められています。地方なら首長は直接選んでいます。なのに、彼らはその大臣・首長の意見には逆らう、というのですから、おかしな話ですよね。その自己矛盾に気付かないのでしょうか?
昨今の公務員に纏わる諸問題、裏金作りやら官製談合やら天下りやら、多くの問題の全ての根は、同じ所にあります。
みんなのためにやる仕事、そのために集めたのが税金であって、彼らの生活資金たる給料はそのオマケ、ぐらいの気持ちでやる仕事のはずなのに。そうした意識は全く無いのです。
別に高い給料をとっても構わないとは思いますが。その給料がどこから出ているのかは忘れてほしくありません。
 
とはいえ、やっぱり私も反省が必要だと思っていますから、あまり彼らだけ責められる立場ではありませんが。
みなさんの仕事は、どうですか?「もらう相手」を意識していますか。誰かの役に立っていますか。

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