2007-07-06

訃報

昨日、昨年の夏に娘がお祭りですくった金魚二匹のうち一匹が、短い生涯を閉じた。
すくってきた時から少し大きさに差があった二匹は、だんだんとその差が広がっていっていた。
うまくエサを食べられず、口に入れては吐き出してしまう「小さいほう」のために、市販のエサをすり鉢で砕いて与えてみたり。いろいろ手は尽くしたのだが。
先週から、何だか痩せたなあと思っていたら、私が会社から戻った時には横たわったまま沈んでいた。
つい先日まで、二匹が元気に泳ぎ回っていた水槽では、今はひとりになってしまった「大きいほう」が、まるで友達を探しているように所狭しと泳ぎ回っている。
 
まだ少し泣きべその娘と金魚の埋葬を済ませて家に戻ると、また思いもしなかった訃報が飛び込んできた。
前の仕事を私が辞めるきっかけを作った「元上司」が、亡くなったというのだ。
春の定期健康診断で見つかった悪性腫瘍は、既に手遅れに近かったらしく。検査から1カ月程で逝ってしまったそうだ。
不謹慎なのは、わかっているが。惜しいとも悲しいとも、微塵も思わなかった。
自己の保身だけを心がけ、力を背景に抑えつけた子分の力でのし上がり。深く考えず自分の気分次第で処遇を行う、私にとって尊敬すべき点が一つも無い人だった。
体育会系からの逸脱者である私は、先輩であれば無条件に全て尊敬する、という単純な思想を持っていない。特に、人間として最も基本的な部分が欠けた人間でも尊敬するようには出来ていない。
処遇の恨みだのなんだのは3年ちょっとの月日を経て雲散霧消していても、肝心の「人として」の部分が、尊敬できる人ではなかった。だから、哀悼の意など浮かぶはずもなかった。
微かに浮かんだのは、ああ、また一人知り合いがいなくなったんだなあ、と。その程度だった。かわいがっていた金魚を失った喪失感とは、比べるべくもなかった。
 
60億の人間が暮らすこの星では、毎日大勢の人が死に、大勢の人が生まれる。
人だけでなく、子飼いにしかわいがっている動物だったり、毎日水をやる庭の草花まで含めれば、私達はたくさんの「大事な者の喪失」を味わいながら生きていく。
サヨナラだけが人生だ、と言った人がいたが。次第次第にサヨナラに慣れてしまった私は、サヨナラに込める気持ちも使い分けるようになっているらしい。
神様から見れば、「命は平等に尊い」のかもしれないが。世界の隅っこのちっぽけな私から見れば、命は平等ではないようだ。

2 comments:

Unknown said...

娑婆で犯した罪は死ねばチャラになるという考えにはくみしない。
先に当選挙区選出の某大臣が自ら命を断ったが哀悼の意を表する気にはならない。
第2次世界大戦を主導した東条英機も靖国神社に合祀してもらいたくない。
死ねば全ての汚名は濯がれるとの日本人の考えには納得できない。

三治 said...

>fupph9さん
コメントどうもです。

仰る内容は、この記事よりこちらの記事のほうがテーマが近いかと思います。というより、正直なぜこの記事を読んで故松岡元大臣や故東条英樹元首相が出てきたのか、よくわかりません。
よろしければ、この記事と御説の接点を教えて下さい。

さて、ところで。彼らは、彼らの罪は。死ぬことで濯がれた、というのは、本当に「日本人の考え」と言えるほど日本の常識なんでしょうか。
合祀の賛否を問うた世論調査の結果では、賛が多い場合であっても否も相当数いる場合が多いのですが。
日本人全体の考え、と言えるほど決着がついた論争ではないように思います。

「罪を憎んで人を憎まず」という諺は、情け深いものとして語られる場合が多いですが、逆に言えば人が故人であっても罪は罪として憎む、ともとれます。
東条であれば、太平洋戦争を主導した、という罪は罪として。人は人で、しかるべき弔いを、という考え方の合祀論者もいます。
十把ひとからげに、日本人は死ねば罪が濯がれたと考えている、と言ってしまうのは、若干偏り過ぎの嫌いを感じますが。
どうでしょうか。

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