蛇の足を描けと言われたので、描いてみる。
意味がわからない、と言われたのである。
そんなはずはない。難しい言葉は使っていないはずだ。
つまらない、と言われるなら、いい。構わない。というより私自身そんなに面白いとは思っていなかったので、そうでしょう?下手ですね。とでも言うしかない。
意味がわからない、はちょっとこたえた。
じゃあお前には全ての昔話の意味がわかるのかよ、だとか、すぐ思いついた罵詈雑言はとりあえずグッと飲み込んで。
じゃあ、やってやろうじゃないか、と。考えたのである。
私の好きな作家の一人に、太宰治がいる。好きすぎて、あんまり言わないようにしているぐらいである。
好きな人にだけわかるように、題名だけ文中の一節から剽窃したりもしている。文章そのものにも大きな影響を受けていることも、太宰を読む人にはわかると思う。
『ムカシ、ムカシノ オハナシヨ』という題名も、『御伽草子』の中で引用される昔話の書き出しを頂戴したものだ。
『御伽草子』は、昔話のごくシンプルなプロットに、現代小説風のディテールを書き加え、太宰の作品として翻案していった作品である。
ひとつ、やってやろうじゃないかと思うのである。
プロットは、出来ている。出来は悪いが出来ている。
これを元に、『御伽草子』風に肉を付け。わからないなどと言われぬものにしてやろうというのである。
もとより、私には才能が無い。下らないことならどこまでも調べたり考えたりできるが、下ること(という日本語は無いが)身になることはさっぱり考えられない。
だから、つまらない、とかくだらない、とか言われるのは一向に平気なのだ。
問題は、わからない、である。
わかってたまるか。私一人の話なんだから。何を期待しているのかと。
それでも、期待されたら、やらざるを得ないではないか。
やれるだけやってみます。多分つまらないでしょうが、それでもよければ読んでみてください。
それでもわからない、と言われたら、知りません。勝手にしてください。というか、こんなブログに何を期待しているのかと。
ただでさえ大して面白くもないものを、よりつまらなくするのは承知の上。
自作自演の蛇足説明。はじまりはじまり。
ひゃっくりじいさん
昔むかし。あるところに、おじいさんがいました。
おじいさんには、おかしなクセがありました。
笑いだすと、ひゃっくりが止まらなくなるのです。
昔話の登場人物というのは、なぜだか何処に住んでいたか特定されないものらしい。
そうなったのは、多分そんなに昔の話ではない。今昔物語や宇治拾遺物語の登場人物は、必ずどこそこのなにがしと書いてある。
それらと基を同じくする民話の類のものが、鎌倉仏教が興り室町期にかけて大衆と仏教が結びついてく過程で、説話として洗練されていったのが御伽草子と呼ばれる物語群だ。とか何とか学校で習った気もする。うろ覚えなのであまり信じず、自分で調べてもらいたいところだが。
とりあえずその仮定でいけば、必ず「あるところのおじいさん(おばあさん)」なのは説明がつく。近所のガキども相手に、今ほど情報が発達していない段階で「吉野に住む講也という坊さんが」なんぞと始めた日には、その「吉野」がどこにあるかから何から何まで説明しなければならぬ。話す坊さんだって吉野になど行ったこともないだろうに。それは酷というものだ。
だから、「あるところに」でごまかした。どこにでも、そこらへんにいそうなじいさん、ということにしたのである。自然な成り行きに思える。
だが、現代小説としてはそうはいかない。読者のイメージが広がるよう、しっかりとした情景を描かなければならない。場所を特定するしないは別として、どんなところなのか、どういう特徴があるのか。物語と密接に関ってくる部分は、しっかり書かなければならない。
人物画だけではなかなかストーリー漫画は成立しない。しっかり背景まで書き込まなければならないのである。
数少ないが、ヒントは与えられている。「しゃっくり」を、この物語では「ひゃっくり」と呼んでいる。
これは関東方言のはずだ。またうろ覚えだが、私が学校で習った方言分布図で言えば「し」と「ひ」の混同、特に「し」を「ひ」と読んでしまうのは関東地方だったはずだ。江戸っ子が「七」を「しち」ではなく「ひち」と読むのと同じである。
うろ覚えが正しければ、関東地方。江戸からは若干離れる。都会の感じはしないからだ。面倒なので特定するが、埼玉である。もっと特定すれば、さいたま市浦和である。私が浦和レッズのファンだからだ。浦和には行ったこともないしその気候風土も歴史も露知らぬが、面倒なのでそういうことにしておく。
笑った拍子にひゃっくりがとまらない。誰でも一度ぐらいは経験があるのではなかろうか。
しゃっくりというのは、横隔膜の痙攣である。笑ったときなど、予期せぬ腹腔の激しい動揺により、痙攣が引き起こされるわけだ。
こうした医学的見地に立った整合性を補完してやるのも、現代風小説では欠かせない部分である。でたらめばっかり並べても、誰も信用してくれないからだ。信用できないということは、リアリティが無い=物語の世界に入り込めない、という問題に繋がってくる。
魔法使いは、現代には生み出されえない。せっかく頑張って生み出されても、それはもはや純文学とは呼んでもらえない。子供騙し、と嘲笑うような奴がのさばっている。
それにしても、笑う度にしゃっくりとは、気の毒な人もいたものだ。
しゃっくりは、なかなかに、苦しい。痙攣である。足が攣るのと原理はそんなに変わらないはずだ。楽なものではない。
昔、24時間しゃっくりが止まらないと死ぬ、という話を聞いたこともある。まさかと思って本気にしていなかったが、よく考えれば呼吸器はじめ重要臓器を守る横隔膜の痙攣なのだから、有り得ることだ。実際、呼吸にはかなりの影響が出るではないか。命に関わる重大な症状にもなりかねないのだ。
せっかく楽しく笑いたいときに、ヒィックである。毎回である。命に関わるのである。なかなかつらい。
だがこのおじいさんの偉いところは、その辛さをおくびにも出さないところである。
お酒がすきなおじいさんは、いつものお仲間と今日も大さわぎです。
笑いじょうごのおじいさん。ひと口のんで、
誰かがおかしなことを言うたんびに
「うははははぁっ ヒィック」
ずいぶんえらそうに笑うくせに、そのあとすぐにヒィックですから、
まわりのおじいさんたちもおかしくてたまりません。
おへやの中は、笑い声と、たまに聞こえるおじいさんの
「ヒィック」と。その後のまた大きな笑い声と。
10軒先まで聞こえるようなにぎやかな大さわぎが、
夜おそくまで続きました。
命に関わる重大な病なのに、笑われたって平気なのである。むしろ大勢集めて、笑いものにされようとしているフシすらある。
人がしゃっくりしたからといってそんなに面白いものではないと思うのだが。親しまれる人なのだろう。ただ笑っているだけの、明石屋さんまの「引き笑い」につられて笑う人が結構いるのと同じだ。
親しみの無いところには笑いは生まれにくい。逆に、親しい人の言うことなら中身はさほどでなくとも面白いものだ。
笑いというのは、言ってみれば油断である。子供や飼い犬の無邪気な姿を笑うのは、彼らが自分より弱い存在だからだ。危害を加えられようが無いから笑うのである。
飼い犬が公園を無邪気に駆け回り、子供が本気で逃げ惑う。飼い主はけたけた笑っているのに、子供の親は本気で怒っている。このよくある状況には、危害を与える側・与えられる側の立場の違い、油断の差が作用している。
ひゃっくりじいさんは、怒ったりしないのだ。むしろ、一緒になって笑ってくれるのだ。その油断が、言い換えれば安心が、一同の大きな笑いを生んでいるわけだ。
いいじいさんなんだ。自分の命に関わる重大な持病を、みんなと一緒に面白がっている。
こんなじいさんに私もなりたいものである。
いつものように大さわぎのある日。村のやどやに、
とおい旅のおさむらいが泊まっていました。
急がない旅ですっかりたいくつしているところに、
わっはは、ヒィック。なにやら楽しげな声が聞こえます。
おさむらいの登場である。
秀吉が刀狩をするより以前は、「侍」と「百姓」の間には確たる身分の差が無かった。みんな自分の家の田畑を耕し、いくさがあれば出征したりしなかったりする。そんな感じだったようである。
だから、この物語の時代は刀狩以降、しかも平和なようだから恐らく江戸中期ごろであろう。
ということは、このお侍の「急がない旅」というのは多分、参勤交代の殿様に頼まれの用件か何かあって、それを果たした帰り道、といった感じではなかろうか。帰ってくるまでが仕事、という他藩への使者的役割などではなさそうである。
江戸時代の侍は、現代で言えば公務員みたいなもんである。しかも完全世襲制。生まれた時から身分を保障されている上、よっぽど大きい一揆でもなければ、刀を抜く機会もそうそうない。
平和ボケである。無礼者、なんて言ってそこらへんの者を切り回るような者はまずいない。そうした行いは、出世に障る。というか、民を治める立場にある以上、確たる非のない下々の者を切るなど、切腹覚悟の行為になるはずだ。
このお侍もご多聞に漏れず、気弱なひとのようだ。しかも、用も終わったし、ということですっかりそわそわしている。
長旅であっても、大きく進めるのは昼しかない時代であるから、夜は暇なのだ。あそびたいのである。どんな田舎町であっても、隙さえあらばと探しているのである。
そこに楽しげな笑い声。もう、いてもたってもいられない。
「おかみさん。ずいぶんにぎやかなおたくがあるようですね。」
「ああ、あれですか。ひゃっくりじいさんのうちのさわぎです。
まいばんあれですよ。すみませんね、眠れないでしょう?」
「いえいえ、私も酒は大好きなもんで。
あのさわぎを聞いちゃだまっていられません。
ちょっと案内してもらえませんかね?」
毎晩飲んで大さわぎする家ほど、周囲からしたら迷惑なものはない。楽しいのは飲んでる自分達だけ、周りにはただひたすらに騒音でしかないのだから。
それでも3日もそんな騒ぎが続いたら、大抵は隣近所にこっぴどく詰められ大人しくなるものなのだが。ならないということは、町の有力なじいさん連中あたりがこぞって参加しているのだろう。おかみさんも「すみませんね」なんて言ってしまうぐらいだから、宿屋のオヤジも参加していると見てほぼ間違いない。
そして。ただただ馬鹿笑い、というのではお侍も「だまっていられません」とはなるまい。近所の宿屋のおかみさんですら迷惑なのだ。何の縁もない、赤の他人もいいところのお侍にだって、普通なら迷惑であろう。
楽しげなんだ。ただ酔っ払いどもが我を忘れて大笑い、というのとは違うところがあったのだろう。あそびたい欲求をあらかじめ持っていさえすれば、つい腰を浮かしてしまいたくなるぐらい楽しげだったのだろう。
単にしゃっくりが面白い、というだけでは、なかなかそうはいくまい。かといって笑いものにされるぐらいだから、じいさん自身が有力者ということもあるまい。
やはり、じいさんの人徳である。皆に愛され信頼され、笑われているのだ。本当にうらやましいぐらい幸せな老後である。
おかみさんに連れられて、がらがらとおじいさんのおへやをあけたとたんに、
「ヒィック!うははははははっ」
の大笑い。おさむらいさんはびっくりして、でもちょっとおかしくなって
「こんばんは。ちょっとまぜてもらえませんか。」
「うっくっくっくっ ああ、どなたかぞんじませんが。どうぞどうぞ。」
「いまね、このじじいがね、ひゃっくり、あっはっはっはっ」
おじいさんたちは、笑いをこらえきれません。
おかげでおさむらいには、さっぱり何の話だかわかりません。
でもとりあえず、と腰を下ろしました。
いよいよお侍さんとじいさん連中、ご対面である。
腰に重たいものをぶら下げたのがガラガラと入ってくれば、普通座には緊張が走るものである。たとえシートベルトをしっかりと締め法定速度ピッタリで走っていても、後ろからパトカーが来たらギクリとするのと同じだ。
だが、この一同。一向にそんな気配がない。人は年を取るほど図太くわがままになるものだし、酒が入って気が大きくもなってはいるのだろうが、そんな次元ではない。なんせ「どなたかぞんじませんが」である。眼中にない、ぐらいの言いようである。無礼極まりない。
その上「いまね、このじじいがね、」である。どれだけ馴れ馴れしいのだと。士農工商、その首座に君臨する武士を目の前にして、このクソ度胸。いや、度胸というのも少し違う。度胸というのは、危険な状況であることを認識した上で胸の底から振り絞って発揮するものだ。このじじいどもは、度胸だけでなく何一つ振り絞ってなどいない。侍きたね、へえそうかこりゃいいとこにきた、ぐらいの勢いである。
ごく自然に、いつでも誰とでも馴れ馴れしいのだろう。そして、侍を恐れるような、疚しいことなど一つも無いのだろう。
忘れてはいけない。場には、町の有力者が揃っている。庄屋もいれば高利貸もいるだろう。だが分け隔てなく、揃いも揃ってアホ面並べて笑い転げているのである。身分の貴賎、金の貸し借り、そんな浮世のつまらんゴタゴタなんぞ、このじいさんたちはとっくに乗り越えているのだ。
だから、たとえ侍であっても、良く来たこっちへこいこいと。楽しくやろうやと。ただ招き寄せてみせる。
そこはまるで、楽園のようだ。慈愛に満ちている。尊敬だの謙譲だの、偉いの偉くないのと。そんなことはどうでもいいのだ。ただ仲間として、楽しくやろうや、という空気だけが満ちている。酔いも手伝ってただただ楽しく、皆が浮かれているのだ。
ただ一人、お侍を除いて。
いくら気弱な腰巾着みたいな侍とはいえ、侍はさむらいである。控えおろう、頭が高い、と一声かければ、下々の者は皆ハハーと平伏す。それが当たり前だと思って、31年生きてきたのである。31歳かどうかはしらないが、まあそんなところだろう。
ここにやってきたのだって、ほほ、わらわはくるしゅうないぞよ、という殿様気分をちょっと味わってみたい、という目論見がなかったとは言えぬ。何せうだつの上がらない侍である。ガキの使いで江戸に遣わされ、さんざんあれもこれもと雑用を命じられ、やっと帰れる帰り道なのだ。上から叩かれた者というのは、自尊を保つためより下の者の上に跨りたがる。これは何も人間だけにある感情ではなく、犬のマウンティングだって同じ欲求が為させるもので、言ってみれば本能的なものなのだ。
じいさんたちには、んなこたあ知ったこっちゃない。ただ、仲間がまた増えた、こいつはいい。楽しい。それしかない。
あまりに想定と違う事態に、ちょっと入りきれないお侍。だが既に、強力な引力を発するじじい連中のペースに飲まれてもいる。とりあえず、と腰を下ろしてしまった。
それが運の尽きだった。今まで誰一人指摘せず、気付かず過ごしてきたおのれの身体的特徴が暴かれ。その上笑いものにされ。マウンティングどころか、しまいにはすっかり馬鹿にされきってしまうとは。
この時のお侍は、想像だにしなかったに違いない。
「まあ、まあおさむらいさん。まずはいっぱい。」
そう言ってつがれたお酒を、おさむらいがくいっとひと口。
とたんに鼻がぷっと赤くなりました。
おさむらいには、おさけを呑むと鼻が赤くなるクセがあったのです。
でも、おさむらいはそれに気付いていませんでした。
とうとう、バレてしまった。とうとうも何も、飲んだひと口目でバレているわけだが。彼のこれまでの、飲酒の度に鼻だけが赤くなるということに気付かず過ごした31年の月日を思えば、「とうとう」と言ってやりたくもなる。
侍社会というのは、恥の文化だ。人を笑いものにする、しかも身体的特徴についてとやかく笑いものにするなど、あってはならぬことだろう。
だが。言われないと気付かない弱点は、誰にだってある。いつかは気付かれることなのだから、誰か言ってやってもよかったのだ。余計なところで傷つかぬように。よっぱらいのじじいどもに笑われる、その前に。
そしてやはり、そうした弱点は、得てして最悪の状況で暴かれる。例えば、侍を侍とも思わぬ不届きな酔っ払いじじいどもの前だとか。
「やあ、おさむらい。ずいぶんりっぱなお鼻をしてらっしゃる。」
いちばんはじっこにいた、頭がはげたおじいさんが言いました。
多分、全員気付いていたのだ。だが、彼らにだって、迂闊に口に出せば腰のものでどうされるかわからない、ということを考えるぐらいの理性は残っている。だから、言わないようにしていたのだ。
だが。空気の読めない奴というのはいるものである。目配せすら必要ないほど全員で承知していた一致事項に、まるで気付けない奴、というのはいるものなのだ。言ってしまった。
しかも、変に気を遣って「りっぱな」で止めてしまった。最悪である。
言うなら、このタイミングしかなかったのだ。「やあ、鼻が赤くなりましたな」とだけ言ってしまえば、まだよかったのだ。それは単なる観察報告である。悪意がない。お侍だって、「鼻が赤い」と言われただけなら、「はて、そうですか?」で済んだのだ。まさかそこでいきなり「無礼者!」にはなるまい。「やあ、本当だ」ぐらいしか言わなかったはずである。お侍はこの時点では、自分の鼻の赤さに全く気付いていないのだから。
「鼻が真っ赤でおかしいですね」と言ってしまえば即座に喉仏をすっぱりやられたのは間違いなかろうが。「鼻が赤い」だけなら、おかしいかおかしくないかの基準すら、お侍は全く持っていなかったのだ。侍仲間で容姿をとやかく言うのはタブーだったのだから。
だが。「りっぱな」と言ってしまった。考え付く限り、最悪の言葉であろう。褒めればいいというものではない。褒め言葉には、ただ貶すより最悪な、「からかう」と取れる要素があるからだ。
空気の読めるじいさん達、あまりに面白い侍の赤鼻を笑えないことを残念に思いつつ、スルーすると決めていたじいさん達は、慌てた。半端でなく慌てている。なりふり構っていられぬ。必死である。
「いやいや、お前の真っ赤なはげ頭のほうがりっぱじゃて。」
「なに、おまえのその袷からはみ出た真っ赤な腹のほうがりっぱじゃて。」
「いやいや、わしの真っ赤なしりがいちばん。」
しりをだすおじいさんまでいたものですから、たまりません。
「うははははははっ、ヒィック」
「やれ、また出なすった!あははははははは」
おじいさんたちは大喜びで、どんどん床を叩いて大笑いです。
でも、おさむらいにだけは何がおもしろいかさっぱりわかりません。
フォローに焦ったじいさんたちは、こういう場合の常套手段に出る。「馬鹿にされた」という思いを忘れるには、何かもっと馬鹿にできるものを用意するのが一番手っ取り早い。マウンティングである。それを素早く判断して実行するあたり、さすが伊達に年は取っていない。
とはいえ。いくらいつもひゃっくりじいさんを笑いものにし、笑い笑われ楽しんでいるじいさん達でも。どこの誰とも知れぬお侍を前に貶しあいを演じるのはさぞやつらかったろう。
孫に「ハゲ」と言われようが「メタボデブ」と言われようが、平気だろう。仲間うちだって笑い事で済むだろう。
だが。お侍がいるのである。若い娘でなかったのが不幸中の幸いとはいえ、見ず知らずの人には違いない。そんな人にまで笑われるのは、さぞや辛かったろう。まだ弱い、足りないと見るや、尻を出すことすら厭わぬのである。なんという自己犠牲。助け合い。空気の読めない赤ハゲのクソじじいには、猛省を促したいところである。
流れるような連係プレーが実を結んだ。ようやく、救いがやってきた。彼らにとって鉄板のネタ、しばし鳴りを潜めていた「うははははははっ、ヒィック」が、ついに炸裂したのである。
よしきた。ほっとした。つまり油断である。油断のあるところには、大きな笑いが起こる。どんどん床を叩くほどの大笑いは、瞬時流れた凍てつくような緊張状態を無事脱した喜びの笑いだったのだろう。
ただ一人、お侍を除いては。
ひゃっくりじいさんの、人なつこく分け隔てのない人となりを知悉しつくし、笑えば毎回出るという特徴もまた認知されていたからこそ、彼らに共通の鉄板のネタとなっていた「うははははははっ、ヒィック」だが。
しゃっくりは、面白くもなんともない。誰でもする生理現象だ。それ自体、全く面白くはないのである。
考えてみてもらいたい。電車で、隣のおっさんがいきなりしゃっくりしはじめ、止まらなくなった。そんなことで笑い出すのは、世界で最も思いやりがなく、かつ笑いのツボが最も浅い集団「学校帰りの団体女子高生」ぐらいだ。私はまず笑わない。良識ある大人は誰も笑わない。そもそもおかしくないのである。
まして、人の生理を笑うなど男子の恥と教わってきた、武家の育ちのお侍である。全く面白くない。そもそも、何について笑い出したかすらさっぱり伝わっていないのだ。
きっとお侍は、ハゲでもデブでも、尻ですら笑っていなかったのだ。面貌についてとやかく言うのは下品だからだ。武士のやることではないからだ。まして多勢の面前で尻を出すなど、無礼極まりないぐらいに考えていたに違いない。全てカラ回りだったのだ。しゃっくりまで徹頭徹尾、全てカラ回りしていたのだ。
だが、自分達にとってはあまりに鉄板のネタだったがゆえ、そんなお侍にあまり気付いていない。学校帰りの団体女子高生でなくとも、何ら悪気のない人々であっても。あまりに一体感を得た人間というのは、そこからこぼれた人間への配慮を欠くきらいがある。ちょうど、日本ハムの日本一にちっとも喜んでいない私が、北海道では奇異の目を向けられたように。
じいさん達にも、悪気はないのだ。あまりに、めでたし、と皆で思ってしまったが故に、ことの原因、張本人がまるで問題解決に至っていないことに、気付けなかっただけなのだ。
(俺の鼻、何がりっぱなんだろう?)
真っ赤なお鼻をさすりながら、つまらなそうな顔をしています。
いつまでも気になるのである。そりゃあ、そうだ。「りっぱだ」と言われただけで、何故立派なのか誰も説明してくれていない。そして、場は何だか謎の盛り上がりで、聞くに聞けないまま時間ばかりが過ぎていくのである。
何が面白いのかもわからん。鼻についてもわからん。これで楽しそうな顔をしていられるほど、武家の育ちのお侍は「お追従」ということに慣れてはいないのだ。
ひとりつまらなそうなおさむらい。
おじいさんたちは、しきりとおさむらいにお酒をすすめます。
小一時間もそうして過ぎていけば、流石の能天気なじじいどもでも、お侍の不興に気付く。
そして、いつでも酒飲みのじじいがそうするように、安易な原因を導き、行動に移すのだ。
即ち、「飲みが足りないのだ」と。酔わせてしまえと。いうことにしてしまうのである。
いい加減酔いも回りきっている。あの、華麗な連係プレーを見せた注意力も、咄嗟の判断力も、思考力すら失われ始めている。
もとがひゃっくりじいさんを笑おうという集いだから、酔えば酔うほどに本性が暴かれる。
もはや、悪気はなくとも、面白いものをそのまま放っておくなど、そんなもったいないことを出来る状態ではなくなってきているのだ。
そのたんびに、おさむらいのお鼻はプップップッ。
どんどん真っ赤になります。
おじいさんたちはおかしくてたまりません。しかも笑ったあとには
「うははははぁっ ヒィック」
ですから、そこでまたまた大笑い。
これはひどい。ほとんど拷問である。
しかも、笑われている当人のうち一人に、全く笑われている意識がない。きょとんとして勧められるままに酒をあおっている。罠とも知らず。
罠。いや、そこまでの悪意はない。お侍がつまらなそうだから、一緒に楽しめるよう、酒を勧める。きちんと筋の通った大義名分は用意されているし、名目だけでなく実際そのために勧めている部分だってあるのだ。
ただ、「オマケ」を大いに期待している、というだけで。
おさむらいには、ますますわけがわかりません。
ちっとも楽しくないのです。
そりゃそうだ。笑われれば笑われるほど、意味がわかるまい。笑われていることすらわかるまい。指さし笑われたり、まじまじと見られたりでもすれば気付いたろうが。そこは老練の妖怪ども、多少空気が読めなくともそこまでのドジは踏まない。
だが。ついに気付くのである。腐っても侍だ。武家の育ちだ。武芸だってかじっている。毎度視線を感じるうちに、その行き着く先に見当をつけた。
確かめるには。それもできれば、ひとりこっそりと確かめるには。
少し考え、おもむろにすっくと立つ。意外に背が大きい。
(俺の顔に何かついているのかな。どれ、ここはひとつ)
「ちょっと、手洗いを」
「あ、ああ庭のすみっこですよ。ヒィック」
「それまた出た!あはははははははは」
どうやらひゃっくりが面白いらしい、というのが、
ようやくおさむらいにもわかりました。
笑いのしゃっくりの名残一発で、ようやく気付いたのである。前段の笑いがなかったから、わかりやすかったのだろう。
少し、胸のつかえが取れた。なあんだ、という思いがあった。
言われてみれば確かに。このじいさん、しゃっくりばかりしている。それを面白がっていたのか。
実は見えたのはことの一端だけだったのだが。こんな時、人は全ての謎が解けた気分になってしまう。
しかもこの場合、「自分が笑いものにされている、しかもこんな身分の違うクソじじいどもに笑いものにされているかも」という疑念で胸がいっぱいだったのだ。
ひとのこころは、いつでも楽なほうへ楽なほうへと逃げたがる。疑うのは辛く苦しい。だから、世の中から詐欺は無くならない。疑うより信じるほうが、ずっと楽なのだ。
あんなに酒も勧めてくれた。いいじいさんたちじゃないか。そんな気すらしてきた。
奈落の縁はいつだって、そういうところに潜んでいる。疑いを無くした瞬間に、突き落とされたりもするものだ。
でも、一度立ったものを座りなおすのもへんなので、
そのままお手洗いに立ちました。
用を足して、手おけの水をふいと見ると。
自分の顔が映っています。
(やあ、鼻が真っ赤だ!あのじじいども、これを笑ってやがったな!)
奈落の底である。
奈落というには若干浅いようにも思うが。何せ、侍だ。武士は食わねど高楊枝である。面子だけを生きがいに生きているようなものなのだ。
このままじじいごときに笑われていたなら、三村家末代までの恥。そもそも三村家はかの細川幽斎が子、興元公に仕えてより。そんな、子供の頃から耳にタコが出来るほど言い聞かされた輝かしき歴史が、脳内を走馬灯のように駆け巡るのである。
事と次第によっては、あのじじども全てこの手で以て誅し。我もその場にて切腹。そこまで覚悟を固めたのである。
「事と次第」を聞こうとするあたり、やはり平和ボケのおぼっちゃんなきらいはあったが。それでも、なかなかできる覚悟ではない。
悲愴なまでの決意を胸に。のしのしと歩を進め。肩を怒らせ襖に手をかける。
怒りに怒ったおさむらい、部屋のふすまをがらがらびしゃん!
ちょっとびっくりしてしずかになったおじいさんたち。
ちょっとあいて、また大笑いです。
「やあ、とうとう顔中真っ赤になりなすった!あっはっはっ」
「うははははぁっ ヒィック」
「それ出た!あははははははははははははは」
今日いちばんの大笑い。
顔中真っ赤になって怒っていたおさむらいも、
あんまり笑うので怒る気がなくなってしまいました。
笑いというのは、史上最強の兵器ではなかろうか。と思うことが、ままある。
寝ているときより、笑っているときはさらに無防備だ。油断しきっている。だから、満面の笑みを浮かべて握手を求められたら、断れない。「笑顔」という弱い姿を見せ近づいてきた人には、信じざるを得ない何かが宿っている。
だからなのか。腹を抱えて笑っている人というのは、それだけで戦意を喪失させる。戦争映画には、必ずと言っていいほどキャッキャと笑いながら人を殺しまくる役柄が現れるが、あれを怖いと思うのが私達の本能であろう。
笑う人間に立ち向かうのは、並大抵のことではない。31歳のお侍、三村殿のあれほどの覚悟も。見事なまでに砕け散ってしまった。
そのまましょんぼり宿屋に帰り、寝る前にもう一度顔を見ると。
もうすっかりいつもの顔に戻っていました。
ふう。大きなため息ひとつついて、
おさむらいはあんまり眠れませんでしたとさ。
その寂寞。その憂愁。いかばかりであろうか。
そして、自己の思いがけぬ醜い習性に、気付かされた重苦しさ。一時の恥では、ないのだ。これから一生、酒を飲む度に、いつ笑われるかと怯えて暮らさねばならぬのだ。
たかが酒で鼻が赤くなる、それだけじゃないか、と彼を笑うことができるだろうか。
私には笑えない。むしろ、胃が痛い。かける言葉も見つからない。
ただ、そっとしておくしかないようである。
さて。わからないと言われたからには、何か結論、教訓、そんなようなものらしきものも提示する必要があるのだろうが。
性格の悲喜劇というものです。とまた剽窃に逃げるわけにはいかないだろうから、何とするか。そもそも悪人が一人もいないのに起こる悲喜劇、というテーマ自体が『瘤取り』からの発想であったから、困った。
考えるほどに面倒になってきた。そもそも、命を賭して文学に向き合う覚悟など、今の私には、ないのだ。
面倒なので、もうこれにする。実際、これを一番言いたかった。そんな気すらしてきたのである。
曰く。
酒は飲んでも飲まれるな。
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